他者とコミュニケーションをする際には様々な目的がある。例えばそれは信頼関係を構築するためだったり、知識の交換であったり、もしくは何か別のものかもしれない。それぐらい他者との応対というのは広い意味を持つものであり、様々な他人が様々な方法で他人と繋がろうとする。とはいえ一様にではないが一般的な方法は存在していて、それとは違ったおかしな形でこれを利用している人もいる。自分なんかはその典型なのだが、最近似たようなことをしている人を見たので考える切っ掛けになった。
自分を含めてある種の人間にとってのコミュニケーションとは、刺激を与えたときの反応を見ることに終始している。他者とは知るべきものであって、どのような刺激を与えたらどのような応対をするかという部分で予測を立て、その中で一番反応がいいだろう刺激を実行する。こういったコミュニケーションなのか迷惑なアルゴリズムなのかわからないような方法を取る人間が自分以外にもたまにいて、見かけるたびにこれは何なのかを考える。
他者とは知るべき対象であり、他者について知る過程がコミュニケーションであり、十分知ってしまった他者は人間ではなく物に見える。刺激と反応の反復を繰り返し、モデルを作れなかった他者のことを友人だと思う。ゲームの対戦相手として、自分の予想を常に超える人物のことを、特別な友人だと思う。そういった形で他者を認識してきた。もし運命の人間が目の前に現れるとしたら、このゲームで特別な相手になる人だろうと漫然と思いながら、他者に対して極めて失礼な態度を取り続けている。
これは本当に何なんだろうな。「他者」というものをどのように位置づけるかという部分で他人と大きく違っていて、不順な要素を取り除いて純粋に理解に努めているといったらそうなのだと思う。しかしこの不順な認知の歪みこそが人格や愛情と呼ばれるものでしかなく、自分にとっての特別な他者は、客観的にも特別な他者なのだろうと思うと、恐らくそういうものは他者への愛という部分で誤っているんだろう。
他人の感覚は常によくわからない。自分へ向けられる客観的ではない愛情が、彼らや彼女らの話を聞いて、自分を見てないように感じる様子があまり好ましくなかった。素面で自分自身を眺めたときに、そこにあるのはただの表層的な人間で、そんなものに何かを見出すのは、熱に浮かされた人間の、その瞬間だけの間違った認識なのだろうと思っていた。愛情というのは常に個人的なものだが、個人的なそれがない自分だからこそ、人と物の区別がつかないような下らない見方しか出来ないんだろう。
運命というものがあって、本当に運命的な相手ならば、自分の簡単な試し行動にもパスしてくれるだろうとでも思っているのだろうか。恐らくそう思っているんだろう。長い時間を生きると出来ることが増えて、見える視点が増えていく。昔だったら尊敬していただろう相手も、今だと馬鹿にしか見えないこともある。そういう意味だと刺激は年々失われていく。巡り合わせというボーナスタイムが終わってしまったんだろう。まあそれはそれでいい。元々他人に救済を求めようとすること自体が誤りだ。これだけは間違いはない。
境界性人格障害の人との交流は自分は通常よりも多い方だと思うが、彼女らの認知からは参考になる部分を見ることができる。彼女らの中には理想や運命といった何かの型があり、それに似ているという理由で他人を好きになり、それではなかったという理由で他人を嫌いになる。彼女らと自分で何が違うのかを考えたときに、ゲームの遊び方が違うだけで大体似たようなものだろうなと思っている。