愚かさと美徳
嘘つきの世界は薄っぺらいが、それを見て泣く人間はいる。虚勢と出鱈目を並べる自分に何かを見出して、それをかけがえのないもののように扱い、それに向かって心を動かすのを見ても、そこから自分が何かを感じることはない。肝心なところですれ違っているそれを見て、歪んだ鏡から見たいものを見る人達を見て、自分は彼女らを愚かだと思っていた。
愚かさとは身勝手さのことだ。頼まれてもいないのに勝手に怒ったり笑ったりする。石ころのようなものを大切に抱いて、話も聞かず、そして他人のために何かを切り崩し、自分ばかり損をする。器用に生きられる人間は何かを切り捨てることが非常に得意だし、小手先のことが実際よりも多くの利益を生むことを知っている。彼らは自分の責任を取れる範囲をよく知っているし、だからこそそれ以上のものには手を出そうとしない。愚かな人間は彼らの美徳の外側にいる。自律ということに価値を持つ彼らは、愚かな人間のようなリスクには手を差し伸べない。
人間であるということはどのようなことか考えたことがある。人間であるということはつまり同類であるということだ。似たような美徳と規範を持った同類を人間だと見なし、他は人間でないもののように扱う。内の人間に示す人間的な共感とは裏腹に、外の人間はモノのように扱う。数字と属性と上っ面だけがあって、内面があることを認めない。表向きの敬意は社交辞令として払うが、人ではなく行為の対象として見なす。
愚かさとは管理され、下に見られるもののことだ。この気に食わない器用な連中の共同体が、愚かな人間を疎外するのを見てきた。そして自分もその一員だった。身勝手に振る舞い、他人に期待された責任を追わず、彼らだけの話をする人間というのは、器用な連中からは好かれない。割を食ってるとさえ思う。社会的な利益を得る立場というのは彼らを管理する役職を意味する。よくできた彼らは自分が管理するものたちには親しみと愛情を持って接する。愛なんてそう簡単に配れるものではないし、そういった欺瞞にも疑いもなく食いつくのは、やはり愚かさなのだろう。
しかし愚かさとは、特に今だから思うのだが、彼らにとってのかけがえのない美徳だと思ってしまう自分がいる。ただ表向きの言葉で騙されている彼らも、自分の中に存在しない何かを見出して目を腫らす彼らも、そして自分が下らないと簡単に切り捨てられるものを大切そうに抱える彼らも、それは自分が最初から持っていない種類の美徳によるものなんだろうなと思うようになった。
最初から何も持っていない人間が、何かを持っている人間を軽んじるのはどんなものなんだろうなと最近は思うようになった。空っぽだから合理的でいられるし、中身には何を詰めても気になんてならない。誤ったものの見方をして、誤った判断をして、誤った行動をする。そういった割り切れない不合理こそ、愛と呼ぶものなんだろうな。最近になって自分の向こう側を見ていた人たちの理由がようやくわかった。そしてそういったものを軽んじていたことにも気づいた。愚かなのは自分なんだろうな。