動物を権利主体として認めたとき、殺害と性行為をどう扱うのか

動物を不必要に殺してはならない、苦痛を与えてはならない、意思に反して繁殖させてはならない、といった主張は、しばしば「動物の権利」という言葉によって説明される。しかし、この表現には、区別して考える必要のある二つの主張が含まれている。

一つは、人間に対して動物を一定の方法で扱う義務を課すという主張である。人間は動物を不必要に殺してはならず、虐待してはならず、飼育するのであれば一定の福祉を保障しなければならないという規範は、人間の行為に対する特別な制約として構成できる。この場合、義務を負うのは人間であり、動物はその義務によって保護される対象となる。

もう一つは、動物自身を権利の主体として認めるという主張である。この場合、動物は単に人間が配慮すべき存在なのではなく、生命や身体について、それを侵害されない権利を持つ存在として扱われる。人間が動物を殺してはならない理由も、人間に特別な禁止義務があるからではなく、その動物自身に殺されない権利があるからだということになる。

この二つの立場は、人間と動物の関係だけを考えている限り、ほとんど同じ結論を導く。しかし、権利を侵害する主体が人間ではなく別の動物である場合を考えると、両者の違いは明確になる。人間にだけ特別な義務を課しているのであれば、動物同士の行為がその規範の対象にならないことには何の不思議もない。他方で、動物自身に殺されない権利や身体を侵害されない権利があるのであれば、その権利が加害者の種によって存在したり消えたりする理由を説明しなければならない。

ここで問題にしたいのは、動物の権利が存在するなら、あらゆる危害を無制限の費用をかけて防止しなければならないということではない。また、動物に人間と同じ責任能力や同意能力があると仮定する必要もない。問題はより限定的であり、動物自身に人間と同じ種類の基本的な権利を認めるのであれば、加害者が別の動物であるという理由だけで、その権利を保護する理由まで失われるのかという点にある。

1. 人間の義務と動物の権利

「人間は動物を殺してはならない」という命題と、「動物には殺されない権利がある」という命題は、同じものではない。前者は人間に対する規則であり、その対象を人間の行為だけに限定することができる。後者は動物自身の地位についての主張なので、その動物の生命を誰が奪おうとしているかとは別に、その権利が存在することになる。

たとえば、ある動物に人間と同じ意味で殺されない権利があるとする。人間がその動物を殺そうとした場合には、その生命を保護する理由があると考えられる。では、別の動物がその動物を殺そうとした場合にはどうなるだろうか。加害者の能力や責任は大きく異なるとしても、被害を受ける動物の側では同じ生命が失われる。

ここで、動物による殺害だけを権利保護の対象外にするのであれば、その理由は被害者側の権利そのものからは出てこない。加害者が人間である場合には保護され、加害者が動物である場合には保護されないという違いを設けることになるからである。

もちろん、加害者の違いによって責任や処罰の扱いが変わることには問題がない。規範を理解し、自らの行為について判断できる人間と、そのような能力を持たない動物を同じ責任主体として扱う必要はない。しかし、加害者の責任が異なることと、被害者の権利が異なることは別の問題である。

また、権利が存在することから、第三者がその権利をどのような費用を払ってでも完全に保障しなければならないという結論が出るわけでもない。人間の権利についても、あらゆる危険を完全に除去することは要求されていない。しかし、生命や身体についての権利を認めるのであれば、少なくとも予防可能な重大な侵害を減らすことには一定の理由が生じる。この程度の保護まで一切要求しないのであれば、権利を認めることの実質的な意味はかなり限定されたものになる。

2. 殺害と捕食

肉食動物は、他の動物を殺すことによって食物を得ている。被食動物に人間と同じ意味で殺されない権利があると考えるなら、この殺害をどのように扱うかという問題が生じる。

ここで問われているのは、捕食動物を人間の殺人犯と同じように非難したり処罰したりすべきかどうかではない。捕食動物にそのような責任能力がないとしても、被食動物の生命を保護する必要まで消えるわけではないからである。問題は、被食動物に殺されない権利があるという前提を維持しながら、加害者が別の動物である場合だけ、その権利を保護しなくてよいとすることができるのかという点にある。

さらに、捕食には人間社会の殺害とは異なる事情がある。人間に対して他人を殺してはならないという規則を課しても、通常、その人は別の方法で生活を続けることができる。殺人を禁止することによって、その人の摂食や生存そのものが不可能になるわけではない。

肉食動物では事情が異なる。捕食は単なる選択可能な行動の一つではなく、生存のための摂食行動でもある。そのため、捕食という行為だけを禁止しても、代わりとなる行為が自然に残るわけではない。捕食を防止すれば、捕食動物は食物を失い、その状態が継続すれば死亡し、個体群を維持できなくなる可能性がある。

したがって、被食動物の生命を保護しながら捕食動物の生命も保護するのであれば、人間が捕食に代わる手段を用意する必要が生じる。食物を供給し、必要に応じて捕食者と被食者の接触を制限しなければならない。

しかし、介入はそこで終わらない。捕食が減少すれば被食動物の死亡率が下がるため、その個体数が増加する可能性がある。被食動物が増えれば植生への負荷が変化し、他の動物の生息条件にも影響する。捕食動物に継続的に食物を供給すれば、捕食動物側の生存率や繁殖率も変化する可能性がある。

そのため、捕食による殺害を継続的に防止するのであれば、給餌だけではなく、繁殖、個体数、生息域などについても一定の管理が必要になる。自然界では、捕食だけを切り離して除去し、残りの仕組みをそのまま維持することが難しいからである。

これに対して、自然に起きていることには人間が介入すべきではないという考え方もありうる。しかし、ある危害が自然に発生していることは、その危害の原因を説明することにはなっても、被害を受ける主体の権利が失われる理由にはならない。人間についても、病気や災害のような自然に生じる危害について、可能であれば救助や予防を行うことは普通に認められている。もちろん捕食と病気は同じ現象ではないが、「自然に起きる危害だから保護理由は存在しない」という原理だけでは、動物同士の殺害を権利保護の外に置くことはできない。

ここから自然界を完全に管理しなければならないという結論が直ちに出るわけではない。しかし、動物の生命権を人間による殺害の場合と同じように実効的に保障しようとすれば、人間が自ら殺害しないだけでは足りず、他の動物による殺害を減らすための相当程度の介入と継続的な管理が必要になる。

3. 性行為と自己決定

同じ問題は、動物の身体的・性的な自己決定について考えるとさらに明確になる。

動物の性行動には、相手が逃避や抵抗を示しているにもかかわらず、力や威嚇によって交尾が行われる場合がある。このような行動を人間社会における犯罪概念とそのまま同一視する必要はなく、動物に人間と同じ形式の同意手続きが存在すると考える必要もない。

問題になるのは、人間が動物の抵抗や選好を無視して繁殖させることを、その動物自身の身体的自己決定の侵害として説明する場合である。その説明を採るのであれば、別の動物が同じ抵抗や回避を力によって押し切る場合についても、被害を受ける動物の権利がどのように扱われるのかという問題が生じる。

したがって、ここで必要なのは、動物の性行動を人間の法的な同意概念にそのまま当てはめることではない。人間による強制的な繁殖を問題にするときに保護されているとされる動物側の身体的な利益や自己決定を、加害者が別の動物になった場合にも同じように考えるのかという問題である。

ここでも、加害動物に責任能力がないことは、加害動物を非難したり処罰したりしない理由にはなるが、被害を受ける動物の身体を保護しない理由にはならない。被害者に権利があるという主張と、加害者に責任があるという主張は独立しているからである。

さらに、この権利を実効的に保障しようとすると、捕食の場合と同じ問題が発生する。強制的な性行動を確実に減らすには、個体の分離、接触機会の制限、監督、避妊、去勢、繁殖行動への医学的な介入などが必要になる場合がある。

その結果として繁殖率が低下すれば、今度は個体群を維持するための措置が必要になる。自然な繁殖だけでは個体群を維持できなくなれば、人工的な繁殖や繁殖個体の管理が必要になる可能性もある。

つまり、強制的な性行動だけを自然界から取り除くことは、必ずしも可能ではない。それを防止することによって繁殖の仕組みそのものが変化するのであれば、失われた機能を人間が別の方法で補完する必要が生じる。

殺害の場合と同様に、身体的自己決定権を実効的に保障するほど、動物の生活への監督と管理を増やす方向に圧力が生じる。

4. 責任能力と権利保護

動物同士の殺害や強制的な性行動については、動物には責任能力がないという説明が考えられる。しかし、この説明が解決するのは主として加害者側の問題であり、被害者側の権利の問題ではない。

人間社会でも、権利を持つ能力、自分で意思決定を行う能力、自らの行為について責任を負う能力は一致しない。十分な意思決定能力を持たない人であっても生命や身体についての権利を持つことができる一方、そのような人が他者に重大な危害を加える可能性がある場合には、責任能力の不存在だけを理由として危害を放置するわけではない。

この場合には、本人を非難したり処罰したりできるかという問題とは別に、被害を防止するための措置が検討される。必要性や危険性に応じて、監督、分離、行動の制限、治療、環境の調整などが行われることがある。

動物についても同じ区別を採用するなら、捕食動物に道徳的責任がないことから、その捕食によって殺される動物の生命を保護しなくてよいという結論は出ない。同様に、強制的な性行動を行う動物に責任能力がなくても、被害を受ける動物に身体的自己決定権があるのであれば、その権利を保護する理由は残る。

したがって、動物同士の危害を権利保護の対象外にするには、責任能力以外の原理が必要になる。

5. どの立場を採ることができるか

ここまでの問題に対しては、大きく三つの立場が考えられる。

第一は、人間にだけ動物に対する特別な義務があると考える立場である。この場合、人間が動物を殺してはならず、虐待してはならず、意思に反して繁殖させてはならないとしても、それは人間に課される特別な規範であり、動物自身が人間と同じ意味で一般的な生命権や身体的自己決定権を持つことを意味しない。

この立場では、人間と動物の行為を非対称に扱うことに問題はない。最初から規則の対象が人間だからである。ただし、その場合に中心にあるのは動物自身の一般的な権利ではなく、人間に課される特別な義務である。

第二は、動物自身に人間と同じ種類の権利を認めながら、動物による侵害だけを特別に権利保護の対象外にする立場である。この場合には、人間による殺害や強制的な繁殖は権利侵害になる一方、動物による同種の危害については保護を要求しないことになる。

この立場では、被害を受ける動物の権利が、加害者の種によって異なる扱いを受ける。そのため、なぜ動物が加害者である場合だけ、その権利を保護しなくてよいのかを説明する必要がある。

野生動物には集団として独立した生活があり、その生活を人間が外部から管理すべきではないという説明も考えられる。しかし、集団としての自治や独立を認めることと、その内部で個体の生命や身体についての権利を保護しなくてよいことは同じではない。人間についても、ある集団が自治を認められていることによって、その内部の殺害や重大な身体侵害が当然に許容されるわけではない。動物についてだけ、集団の独立を個体の基本的な権利より常に優先するのであれば、その違い自体に説明が必要になる。

第三は、動物には人間と同じ種類の権利があり、動物同士の危害も本来は保護の対象になるが、現実には介入の費用、副作用、知識の不足などによって十分な保護を実現できないと考える立場である。

このような制約は人間社会にも存在する。生命や身体についての権利があるとしても、あらゆる危険をどれほど大きな費用をかけても防止しなければならないわけではなく、救助や保護の能力には現実的な限界がある。しかし、その場合でも、保護の費用が高いことを理由として、被害者に権利がないことにしたり、侵害そのものを問題ではないことにしたりするわけではない。

したがって、この立場を採るのであれば、技術や知識が向上し、介入の費用や副作用が低下するほど、動物同士の危害に介入する理由は強くなる。安全に捕食を減らしながら捕食動物に代替的な食物を供給できるようになれば、その方法を利用する理由が生じる。強制的な性行動を低い負担で防止できるのであれば、個体の分離、監督、避妊、去勢などを行う理由も強くなる。さらに、それらの介入によって個体数や繁殖の仕組みが変化するのであれば、それを補うための繁殖管理や生息環境の調整も必要になる。

この立場では、人間の介入能力が高くなるほど、自然界への介入を控える理由の一部が失われていく。

6. 結論

「人間には動物に一定の危害を加えない義務がある」という主張と、「動物自身がその危害を受けない権利を持つ」という主張は、同じではない。前者であれば、人間だけに特別な義務を課していると説明すればよく、動物同士の殺害や強制的な性行動まで同じ規範の対象にする必要はない。

しかし、後者を採用し、動物自身に人間と同じ種類の生命権や身体的自己決定権を認めるのであれば、その権利が他の動物によって侵害される場合についても説明が必要になる。加害動物に責任能力がないことは処罰の違いを説明することはできるが、被害動物を保護しない理由にはならない。自然に起きる危害であるということも、それだけで被害者の権利を失わせる理由にはならない。

介入の費用や副作用が大きいために現在は十分な保護を実現できないと考えることはできるが、その場合には、技術や知識が向上して介入が容易になるほど、保護を行う理由が強くなる。その帰結として、給餌、監督、分離、避妊、去勢、繁殖管理、個体数管理、生息環境の調整など、人間による相当程度の継続的な介入が必要になる可能性がある。

したがって、動物を人間と同じ意味で権利主体として扱うことは、単に人間による動物の支配を制限する方向だけを意味するわけではない。その権利を動物同士の関係にも一貫して適用するのであれば、条件によっては、人間が動物の生存、繁殖、個体間関係をより強く監督し、管理する方向にも進むことになる。

この帰結を受け入れること自体は、一貫した立場である。他方で、そのような介入を原理的に避けたいのであれば、人間による危害だけを問題にする理由を、人間に課された特別な義務として説明するのか、それとも動物による侵害だけを例外とする別の原理を採用するのかを明らかにする必要がある。

「動物の権利」という表現を用いるときに問われるのは、最終的にはこの違いである。

ICCに大英博物館の収蔵品を返還させるための理屈

1. 大英博物館の収蔵品をICCで返還させることはできるか

大英博物館が保有する文化財の中には、軍事遠征の過程で取得されたことが比較的明確なものがある。その中でも、今回の問題を考えるうえで特に分かりやすいのが、1868年のイギリス軍によるエチオピア・マクダラ遠征に由来する収蔵品である。

大英博物館自身の記録によれば、1868年4月にイギリス軍とインド軍がマクダラを攻略した後、王室、教会、宝物庫に存在した財産が略奪された。略奪された物品の多くはArmy Prize Committeeによって集約され、兵士にprize moneyを分配するため、4月20日から21日にかけてDelanta Plainで公式のauction of lootにかけられた。

この事件では、大英博物館も単なる後日の購入者だったわけではない。

British Museumの職員Richard Rivington Holmesは、博物館の“archaeologist”かつofficial representativeとして軍事遠征に同行していた。大英博物館自身の説明によれば、Holmesは軍とともにマクダラへ入り、plunderingに直接参加したうえ、兵士から物品を購入し、さらに公式のloot auctionでもBritish Museumのために複数の文化財を取得した。博物館はHolmesを遠征へ同行させるにあたり政府の支援を受け、Treasuryから1,000ポンドの補助も得ていた。

個々の収蔵品についても取得経緯はかなり明確に記録されている。たとえば現在British Museumが保有するrobeについては、acquisition notesに“Looted by Richard Holmes at Maqdala”と記載されている。また別の物品については、HolmesがArmy sale of lootでBritish Museumのために購入したことが中央文書館の記録とともに示されている。

そこで、かなり無理のある問題をあえて考えてみることができる。

これらの文化財を、単なる所有権や外交上の返還問題としてではなく、戦争犯罪としてのpillage、すなわち略奪の問題としてICCに持ち込み、返還を求めることはできないだろうか。

もちろん、そのままでは成立しない。

最大の問題はICCの時間的管轄である。Rome Statute 11条によれば、ICCにはStatute発効前に行われた犯罪についての管轄がなく、その絶対的な始点は2002年7月1日である。1868年のマクダラ遠征そのものを現在のICCが裁くことはできない。

したがって、この問題をICCへ持ち込むためには、1868年の原始的な奪取そのものではなく、その後の取得、受領、移転、あるいは現在の財産支配のいずれかを、ICCの時間的管轄内に存在する新たなappropriationとして評価する必要がある。

この構成も容易ではない。過去に違法に取得された財産を現在まで保持しているというだけで、その保持が毎日新しいpillageを構成すると理解することは通常できない。また、現在の行為と1868年の武力紛争とのnexusをどのように構成するのか、現在の誰に犯罪行為と必要なintentを帰属させるのかという問題もある。

したがって、British Museumの現在の収蔵そのものをICC上の戦争犯罪として扱うには、いくつもの重大な障害が存在する。

ただし、ここではそれらの問題をいったん横に置いてみたい。

仮にICCの時間的管轄内に新たなappropriationが存在するとして、British Museum型の取得をICCのpillageの構成要件に当てはめた場合、どこで犯罪成立が否定されるのだろうか。

そこで、時間的管轄とは別の問題が現れる。

2. British Museumはprivate or personal useで落ちるのか

Rome Statute 8条はpillageを戦争犯罪として規定しているが、ICCにおける具体的な犯罪成立要件を確認する際にはElements of Crimesが参照される。

Elements of Crimesはpillageについて、行為者が財産をappropriatedしたこと、所有者から財産を奪う意図を有していたことに加えて、その財産を“private or personal use”のためにappropriatedする意図を要求している。

この限定は、国際人道法上のpillage概念一般から当然に導かれるものではない。

Bemba Trial Chamberは、このprivate or personal useという要件がcustomary international humanitarian lawやconventional international humanitarian lawに明示的に存在するわけではなく、他の国際刑事裁判所の判例でも同じ形では確立されていないことを認めている。それでもElements of Crimesに明示されている以上、ICCではこの要件を満たす必要があるとした。

この要件をマクダラのHolmesに当てはめると、その効果がかなり分かりやすくなる。

Holmesはマクダラで取得したすべての文化財をBritish Museumへ渡したわけではない。大英博物館自身の説明によれば、HolmesはKwer'ata Re'esuという聖画をMuseumには知らせず、自分自身のprivate collectionに入れていた。この作品は後にロンドンで売却され、現在はポルトガルのprivate collectionにあるとされる。

Holmesがこのように自分自身のcollectionのために財産を取得した場合には、private or personal useとの関係は比較的分かりやすい。

他方で、同じHolmesが同じ軍事遠征の過程で取得し、British Museumへ送った文化財については事情が異なる。

British Museumによる利用目的は、保存、研究、展示、教育、公衆へのアクセスといった制度的なものである。したがって、その利用をpersonal useと呼ぶことは難しく、通常の語義でprivate useと評価することにも問題が生じる。

ここで重要なのは、財産取得そのものの態様が変わっているわけではないという点である。

同じ人物が、同じ軍事遠征の中で、同じplunderingの過程から文化財を取得し、一方を自らのprivate collectionへ入れ、他方をBritish Museumへ入れた場合を考えることができる。前者ではprivate or personal useを認定しやすいが、後者では財産のdestinationがpublic institutionであることによって目的要件の評価が難しくなる。

つまり、Elements of Crimesを文字通り適用すると、appropriationが違法であるかという問題とは別に、その財産が最終的に誰のため、何のために利用されるかによってpillageの成立可能性が変化することになる。

個人的なappropriationであるほど犯罪として処理しやすく、制度的・公共的なappropriationになるほど処理しにくくなる。

この区別は、ICCが戦時中の私的な窃盗を特に犯罪化しようとしているのだと考えれば、一応理解することができる。

しかし、その理解を現代の組織的な文化財略奪に適用すると、別の問題が生じる。

その最も分かりやすい事例がISISである。

3. ISIS型の文化財略奪をpillageとして処理すると何が起きるのか

ISISがイラクやシリアで文化財の略奪や密輸に関与し、その収益を組織活動に利用していたことは、国連安全保障理事会によって明確に確認されている。

2015年のSecurity Council Resolution 2199は、ISIL、Al-Nusra Frontその他の関連組織が、イラクおよびシリアの考古学遺跡、博物館、図書館、archivesなどから文化財をlooting・smugglingすることで収入を得ていたことを指摘した。さらに、その収入がrecruitmentを支援し、terrorist attacksを組織・実行するoperational capabilityの強化に使われていることを問題としている。

ここで問題とされたのは、個々のISIS構成員が文化財を盗んで自宅に飾ったというだけの行為ではない。

文化財の経済的価値が組織の資金源となり、その資金がrecruitmentや組織の作戦能力へ転換されるという構造である。その意味で、ISIS型の文化財略奪はpersonal enrichmentよりもorganizational financingに近い。

ただし、ここで注意が必要である。

ISISによる文化財略奪について、ICCがpillageの有罪判決を出した事例はない。また、ICCが「ISISの中央財政のために文化財を取得することもprivate useである」という一般法理を確立したわけでもない。

したがって、「ISISならICCでpillageとして認められている」という言い方は正確ではない。

重要なのは、国連が確認したこのISIS型の事実関係と、ICC Office of the Prosecutorが文化財pillage一般について示している訴追方針を重ねると、private or personal useという目的要件にかなり強い圧力がかかるという点である。

OTPのPolicy on Cultural Heritageでは、文化財のpillageについて、個々の兵士によるsporadicまたはopportunisticな略奪だけでなく、“organised, officially authorised and sanctioned”な形態を取り得ることが明示されている。さらにOTPは、証拠が十分な適切な事件では、systematic pillaging of cultural propertyの訴追を積極的に検討するとしている。

したがって、OTPが文化財pillageとして想定している対象は、戦場で個人が物品を盗む場合だけではない。組織化され、一定の公式な承認を受け、体系的に実行される文化財の収奪も、その射程に置かれている。

ところが、同じPolicyは、その直後にprivate or personal useという目的要件を説明している。

OTPによれば、ICCにおけるpillageは、他のappropriationやseizureと異なり、行為者が財産をprivate or personal useのために取得することによって区別される。そしてこの要件は、犯罪が特に処罰しようとしている害が“personal enrichment”であることを示すものだと説明されている。

ここには一定の緊張が存在する。

一方では、文化財pillageはorganisedでofficially authorised and sanctionedな形で行われ得る。

他方では、その犯罪に特有の目的要件はpersonal enrichmentに結びつけられている。

ISIS構成員が文化財を自分自身のために取得し、個人的に売却して利益を得る場合には、この二つの説明は問題なく両立する。

しかし、国連がResolution 2199で問題としたように、文化財の収益が組織のrecruitmentやoperational capabilityの維持に使われる場合には事情が異なる。その目的は個々の構成員のpersonal enrichmentではなく、組織そのものの活動資金の獲得だからである。

ISIS型の組織的文化財略奪をICC上のpillageとして処理しようとすれば、private or personal useを行為者本人の直接的な個人的利益よりも広く理解する必要が生じる。

ICCの既存判例には、そのための一定の余地がある。

Bemba Trial Chamberは、“private or personal use”の“or”という接続詞に着目し、行為者自身が略奪物を使用する場合に限定されないとした。つまり、取得された財産が行為者自身ではなく別のpersonやentityのために利用される場合にも、目的要件を満たす余地がある。

また、ICCのpillage法理はappropriationの対象をprivate propertyだけに限定していない。Ntaganda事件のProsecutionもKatangaとBembaを踏まえ、pillageがprivate propertyだけでなくpublic propertyにも及ぶという理解を整理している。

ただし、ここから直ちに、ISISの中央財政や軍事活動のための利用がprivate useであるという結論は出ない。

実際、Ntaganda控訴手続に提出されたamicusは、この問題をさらに一歩進め、pillageの実効性を保つためには“private use”をstate entities、corporate actors、individual actorsによるappropriationを排除しないよう解釈すべきだと主張している。しかし、これはamicusによる解釈提案であって、ICCが一般法理として採用した命題ではない。

つまり、ISIS型の文化財略奪は、ICC法理によって完全に解決済みの事例ではない。

むしろ、文化財のsystematic pillagingを訴追対象として想定するOTPの政策と、private or personal useというElementsの限定をどのように接続するのかという問題を、かなり明確に示す事例である。

そして、この問題をBritish Museumへ移すと、さらに興味深いことになる。

4. ISIS型を捕捉するための解釈をBritish Museumに適用するとどうなるか

ここまで確認した内容を、できるだけそのままマクダラのBritish Museumに適用してみる。

まず、appropriationが組織的であることは、それ自体としてpillageを否定する事情ではない。

OTPは文化財pillageがorganisedでofficially authorised and sanctionedな形態を取り得ると明示し、systematic pillaging of cultural propertyについても訴追を検討するとしている。

マクダラのBritish Museumによる取得も、単なる兵士個人の偶発的な略奪とはかなり異なる。

軍事遠征後にはArmy Prize Committeeが略奪物を集約し、公式のauction of lootを実施していた。British MuseumはHolmesをofficial representativeとして軍事遠征へ同行させ、政府から財政支援を受けたうえで、Museumのcollectionのために財産を取得している。Holmes自身もplunderingに直接参加し、兵士や公式オークションからMuseumのために物品を取得していた。

したがって、organisedであるか、officialな関与があるかという点だけを見れば、British Museum型の取得を文化財pillageの射程から当然に外すことはできない。

次に、取得された財産が行為者本人ではなくentityのために利用されることも、それだけでは決定的な排除理由にはならない。

Bembaでは、行為者本人が略奪物を利用する場合だけに目的要件を限定しないという理解が示されている。

ISIS型の組織的文化財略奪をこの方向で処理しようとするなら、個々の構成員が最終的な利益を受け取らなくても、文化財の価値が組織のrecruitmentやoperationsへ利用される場合を、何らかの形でprivate useの射程に含める必要がある。

同じ構造をBritish Museumへ適用すると、Holmesは自分自身ではなくBritish Museumというentityのために文化財を取得している。

その取得は偶発的なものではなく、Museumのofficial representativeとして軍事遠征に同行し、institutional collectionを形成するために行われた。

ここまでの比較では、ISIS型との違いは、appropriationがorganisedかどうかでも、行為者本人以外のentityのための取得であるかどうかでもない。

大きく異なるのは、そのentityの性質と利用目的である。

ISISが文化財から得た収益をrecruitmentや軍事活動へ使用する場合、その利用は非国家武装組織のorganizational useである。

British Museumが文化財をcollectionへ組み込む場合、その利用はpublic institutionのinstitutional useである。

そこで、ISISをprivate entity、British Museumをpublic institutionとして区別し、前者だけをprivate useに含めるという解釈は考えられる。

しかし、その場合には、なぜpillageの成立範囲を決める境界が、appropriationの違法性ではなく、受益主体がprivateかpublicかという区別になるのかを説明する必要がある。

この点は、Holmes自身の行動によってかなり明確に見える。

Holmesがマクダラで取得した文化財を自分のprivate collectionへ入れれば、private or personal useとの関係は明確になる。

同じHolmesが同じ遠征で同じように取得した文化財をBritish Museumへ入れると、その利用はinstitutionalまたはpublic useになる。

原所有者から財産が奪われたことや、その取得が軍事遠征の中で行われたことは同じである。それにもかかわらず、財産の最終的なdestinationがHolmes本人かBritish Museumかという違いによってpillageの目的要件の評価が変わる。

ISISでは逆方向の問題が生じる。

ISIS構成員が文化財を自分自身のために盗めば、personal useとの関係は明確である。

しかし、略奪がより組織化され、文化財の収益が中央財政へ集約され、recruitmentや戦闘能力の維持へ利用されるほど、行為はpersonal enrichmentから離れていく。

それにもかかわらず、OTPは文化財pillageについてorganisedでofficially authorisedな形態やsystematic pillagingまで訴追対象として明示的に想定している。

したがって、ISIS型の組織的文化財略奪をpillageとして自然に捕捉しようとするほど、private useを単純なpersonal enrichmentより広く読む必要が生じる。

しかし、その解釈を広げていくと、British Museum型のinstitutional appropriationをprivate or personal useという目的要件だけで排除する境界は次第に不明確になる。

これはBritish MuseumとISISが同じ存在だという意味ではない。

両者は組織の性質も、行為の目的も、歴史的文脈も全く異なる。

問題は、同じpillageの構成要件に同じ解釈規則を適用したとき、その相違がprivate or personal useという要件からどのように導かれるのかという点である。

5. 大英博物館をICCから救っているのは何なのか

以上の検討から、大英博物館のマクダラ収蔵品を現在のICCによって返還させることができるという結論は出ない。

最大の理由は時間的管轄である。1868年のマクダラ遠征はICCの管轄よりはるか以前の出来事であり、現在の保持を新たなappropriationとして構成することも容易ではない。さらに、現在の行為と武力紛争とのnexusや、具体的な個人への刑事責任の帰属にも大きな問題がある。

したがって、大英博物館がICCによって処罰されない理由はいくらでも存在する。

しかし、その中でprivate or personal useという目的要件が、British Museum型とISIS型の組織的appropriationを明確に区別しているかというと、それほど単純ではない。

ISIS型の文化財略奪を、個々の構成員によるpersonal enrichmentだけでなく、組織財政や軍事活動のためのsystematic pillagingまで含めてpillageとして捕捉しようとすれば、private useを行為者本人の直接的利益より広く理解する必要がある。

一方、その理解を別のpersonやentityのための利用まで広げるのであれば、public institutionのためのappropriationがどの原理によって除外されるのかを別途説明する必要がある。

大英博物館とISISは、組織の性質も歴史的文脈も全く異なる。しかし、pillageの目的要件だけを取り出すと、両者の違いがprivate or personal useという文言から自然に導かれるわけではない。

大英博物館をICCから最も確実に救っているのは、1868年という日付である。

時間的管轄の問題を外してpillageの定義だけを見ると、British Museum型の制度的appropriationとISIS型の組織的appropriationの境界は、依然として明確ではない。

ICCはなぜpillageに「private or personal use」という要件を付けたのか

ICCの「犯罪の構成要件(Elements of Crimes)」を見ると、pillageには少し特殊な構造が採用されている。

ローマ規程8条は、国際的武力紛争と非国際的武力紛争の双方についてpillageを戦争犯罪としている。しかしElements of Crimesでは、単に他人の財産を奪ったことだけでは足りない。行為者が一定の財産をappropriationしたことに加えて、所有者からその財産を奪い、それを「private or personal use」のためにappropriationする意思を有していたことが要求される。

ここでいうappropriationは、通常の窃盗における物理的な持ち去りだけを意味するものではない。財産を取得し、その支配や権利を自己または第三者の側に移す行為を含み得る、より広い概念として用いられている。そのため、以下ではこの語を訳し分けず、原則としてappropriationと表記する。同様に、Elementsの形成過程で区別の対象となったseizureについても、そのまま表記する。

ICCのpillageには、したがって二つの特徴がある。

第一に、行為要件として、通常の窃盗より広いappropriationという概念を採用している。

第二に、その広いappropriationを対象としながら、目的についてはprivate or personal useという限定を加えている。

この二つの選択は、一見すると逆方向を向いている。pillageを兵士などによる私的な窃盗に近い犯罪として構成したいのであれば、行為要件自体をより狭く定めることもできる。他方で、戦時における違法なappropriationを広く対象とするためにappropriationという概念を採用するのであれば、その用途をprivate or personal useに限定する必要は自明ではない。

しかも、private or personal useという条件は、pillageについて古くから当然に認められてきたものではない。ローマ規程本文には存在せず、従来の条約上の国際人道法や慣習国際法、他の国際刑事裁判所の判例にも、pillage一般の必須要件として確立していたものではなかった。ICC自身もBemba事件で、この要件がICCに固有のものであることを認めている。

問題は、ICCがなぜ、広いappropriationという行為概念を維持しながら、その目的についてだけprivate or personal useという新しい限定を加えたのか、という点にある。

1. 歴史的なpillageはprivateなappropriationだけを意味しなかった

pillage、あるいは歴史的に近い意味で用いられてきたplunderの禁止は、ICCが新たに作ったものではない。

戦時におけるpillageの禁止は古い戦争法上の原則であり、1907年のハーグ陸戦規則にも明文で規定されている。その後も、第二次世界大戦後の国際刑事裁判などを通じて、戦時における違法なappropriationは禁止されてきた。

ここで重要なのは、歴史的なpillageやplunderが、兵士が民家から時計や現金を持ち去るようなprivateなappropriationだけを意味していたわけではないことである。

第二次世界大戦後の裁判では、占領地域の企業、工場、原材料その他の財産を組織的にappropriationし、それを占領国の経済や戦争遂行のために利用する行為もplunderとして問題とされた。その後の国際刑事裁判でも、pillageは個々の兵士によるlootingだけでなく、占領地域における体系的な経済的搾取の一環として行われるorganized seizureまで含むものとして理解されてきた。

したがって、歴史的なpillageには少なくとも二つの典型が存在していた。

一つは、兵士などによるprivateなappropriationである。

もう一つは、国家、軍、占領当局などが組織的・体系的に行うappropriationである。

後者の場合、appropriationされた財産がprivate or personal useに供されることは当然には要求されない。占領地域の工場を本国経済のために利用したり、原材料を国家の戦争遂行に投入したり、企業その他の財産を占領国側の制度へ組み込んだりする場合でも、そのappropriationが違法であれば、歴史的にはplunderとして問題となり得た。

これはpillageの周辺的な類型ではない。第二次世界大戦後のplunderに関する法形成において、国家、軍、占領当局によるsystematic economic exploitationは、その主要な対象の一つだった。

このような犯罪の形成過程を考えると、ICCが行為要件としてappropriationという広い概念を採用したこと自体は理解しやすい。pillageは、単純な物理的窃取だけを対象とする犯罪として形成されてきたわけではないからである。

第二次世界大戦後の財産犯罪に関する裁判では、最初の違法なappropriationに直接参加した者だけでなく、その後、違法にappropriationされた財産であることを知りながら、その財産を取得し、支配下に置いた者についても責任が問題とされた。したがってappropriationは、必ずしも最初に財産を物理的に持ち去る行為だけに限定される概念ではない。

この意味で、ICCが広いappropriationを維持したことは、歴史的なpillageとの連続性を持っている。

説明を必要とするのは、その広いappropriationを維持したうえで、従来のpillage一般には存在しなかったprivate or personal useという目的要件を追加したことである。

この要件によって影響を受けるのは、珍しい境界事例だけではない。歴史的なplunderの主要な類型であった、国家、軍、占領当局による組織的なappropriationそのものが、private or personal useという要件との関係でICC上のpillageから外れ得る。

2. Elements of Crimesは単なる技術的な補足ではなかった

この問題を考える際には、Elements of Crimesがどのような文書として形成されたのかも重要である。

形式的には、Elements of Crimesはローマ規程に規定された犯罪の解釈と適用を補助するための文書である。しかし、実際の形成過程を見ると、その作成はローマ規程の文言を機械的に分解する作業ではなかった。

Elementsの形成時には、どのような行為を犯罪として処罰するのか、どの程度のmens reaを要求するのか、隣接する犯罪をどのように区別するのかについて、かなり実質的な政策判断が行われていた。

分かりやすい例の一つがgenocideである。ローマ規程6条には存在しないmanifest patternというcontextual elementがElementsでは追加されている。この要件は、ICTYのJelisić事件で、理論上は単独の個人でもgenocideを犯し得るという解釈が示された後に導入され、そのような類型を制限する役割を持つと説明されてきた。

逆方向の例としては、15歳未満のchild soldiersのconscription、enlistment、useについて、Elementsが年齢に関して「knew or should have known」という基準を採用していることが挙げられる。これはArticle 30の通常のintent and knowledgeとは異なる認識基準であり、Elementsが犯罪の射程について実質的な判断を行っていたことを示している。

したがって、Elementsの形成過程は、ローマ規程採択後に残された刑事政策上の問題を処理する、いわば第二段階の立法過程としての性格を持っていた。

この点はpillageを考えるうえでも重要である。

private or personal useという要件についても、「Elementsだから細かい要件が付いただけ」と理解することはできない。どのappropriationをpillageとして残し、どのappropriationをそこから除外するかという実質的な政策判断として見る必要がある。

もっとも、ここでpillageには一つ特徴がある。

Elementsによって犯罪の射程が実質的に変更された他の著名な例では、少なくとも何を問題としてその変更が行われたのかを比較的追いやすい。

genocideであれば、Jelisićが示した単独犯によるgenocideという問題があった。child soldiersであれば、15歳未満の者の徴募や使用について、年齢の認識をどの程度要求するかという問題があった。

これらの政策判断の妥当性については議論があり得るが、少なくとも何を解決しようとしていたのかは理解できる。

pillageの場合は事情が異なる。

private or personal useを追加したことによって、歴史的なpillageの主要類型だった国家的・組織的なappropriationが外れ得るほど大きな変更が生じているにもかかわらず、なぜその変更が必要だったのかについて、同じ程度に明確な説明が見当たらない。

3. pillageの形成過程では途中で犯罪の切り方が変わっている

現在のprivate or personal useという要件は、最初からElementsに予定されていたものではない。

1999年に検討された案では、pillageを広いappropriationとして捉えながら、国際人道法上認められるappropriationやseizureを犯罪の射程から除外する構成が検討されていた。

1999年末までにまとめられた案では、行為者が一定の財産をappropriated or seizedしたこと、そのappropriationまたはseizureがmilitary necessityによって正当化されなかったこと、さらに所有者から財産を奪う意思を有していたことが主要な要件とされていた。

この構成は比較的理解しやすい。

戦時中には、所有者の意思に反するappropriationがすべて違法になるわけではない。国際人道法上の要件を満たすseizure、requisition、war bootyその他のappropriationが認められる場合がある。

ここでmilitary necessityは、成立したpillageを後から正当化する抗弁という意味ではない。国際人道法上適法なappropriationであれば、そもそも違法なpillageには当たらないという関係である。

したがって、appropriationを広く行為要件として維持しつつ、国際人道法上正当化されるappropriationを除外する構成にすれば、合法なappropriationと違法なappropriationを直接区別することができる。

ところが2000年になると、この構造が変化する。

Coordinator's Discussion Paperでは、現在のElementsに近い構成が現れ、行為者が一定の財産をappropriationしたことに加えて、所有者からその財産を奪い、それをprivate or personal useのためにappropriationする意思を有していたことが要求されるようになった。

同時に、military necessityによって正当化されないことは独立した要件から外れた。

その代わり、private or personal useという文言を用いていることから、military necessityによって正当化されるappropriationはpillageを構成しない、という説明が脚注に置かれた。

つまり形成過程の途中で、犯罪の切り方が変わっている。

それ以前の案では、appropriationが国際人道法上正当化されるかどうかによってpillageの範囲を区切っていた。

最終的なElementsでは、それとは別に、appropriationがprivate or personal useのために行われたかどうかという目的要件が加えられた。

この変更について全く説明がないわけではない。

起草関係者の後の説明によれば、pillageとArticle 8(2)(b)(xiii)が規定するdestroying or seizing enemy propertyとの重複が問題となり、private or personal useという要件によって両者を区別することが意図されたとされている。BembaでもICCは、この要件がseizure、bootyその他のappropriationとpillageを区別する役割を持つと説明している。

しかし、これは、なぜprivate or personal useという要件を採用する必要があったのかを完全には説明していない。

pillageとseizureを区別する必要があることと、その区別をprivateとnon-privateという目的の違いによって行う必要があることは別だからである。

合法なappropriationを除外したいだけなら、その適法性を直接問題にすればよい。実際、形成過程の途中にはそのような案が存在していた。

それにもかかわらず最終的には、合法か違法かという線とは別に、private or personalか否かという線が追加された。

4. private or personal useによって落ちるのは歴史的なpillageの主要類型である

private or personal useという要件の効果は、appropriationを三つに分けると分かりやすい。

第一に、国際人道法上正当化されるappropriationがある。この類型は、そもそも違法なpillageには当たらない。

第二に、国際人道法上正当化されず、private or personal useのために行われるappropriationがある。典型的には、兵士が住民の現金、衣類、家財、食料などをappropriationし、自分たちや他の私人のために利用する場合である。

第三に、国際人道法上正当化されないにもかかわらず、private or personal useではなく、国家、軍、公的機関その他のpublicまたはofficialな目的のために行われるappropriationがある。

合法なappropriationだけをpillageから除外したいのであれば、第一の類型を除外すれば足りる。

しかしprivate or personal useを必須要件にすると、第二の類型は明確にpillageとして残る一方、第三の類型についてpillageとしての成立が困難になり得る。

国際人道法上正当化されないことと、private or personal useのために行われることは同じではない。

国家が占領地域の企業や財産を自国の制度へ組み込む場合、軍が財産を組織的に国家管理へ移す場合、公的機関が他国の財産を自己の制度へ編入する場合、そのappropriationに国際人道法上の正当化が存在するとは限らない。

しかし、その目的がprivate or personalであるとも限らない。

したがって、private or personal useという要件は、合法なappropriationだけを除外するものではなく、違法であってもprivate or personalではないappropriationまでpillageから外し得る。

ここで重要なのは、そのようなappropriationが歴史的なpillageの周辺的な事例ではないことである。

第二次世界大戦後にplunderとして処罰され、その後の国際刑事法にも引き継がれた主要な類型の一つが、まさに国家、軍、占領当局によるsystematic economic exploitationだった。

したがって、この変更を、刑事責任を明確にするために多少under-inclusiveな定義を採用したものと説明することも難しい。

private or personal useによって影響を受けるのは、pillageの境界事例ではなく、その歴史的形成において中心的だった犯罪類型だからである。

さらに、Article 8(2)(b)(xiii)のdestroying or seizing enemy propertyがその全てを代替するわけでもない。

同犯罪にはenemy propertyであることやmilitary necessityとの関係など独自の構成要件が存在する。その対象範囲は、歴史的なpillageが扱ってきた国家的・組織的なappropriationの集合と一致しない。

したがって、privateなappropriationをpillageに、それ以外のappropriationをseizureに分類したからといって、従来pillageで処罰できた行為が別の犯罪によって同じ範囲で回収されるわけではない。

この意味で、private or personal useという要件は単なる分類上の整理以上の効果を持つ。

それまでpillageとして扱われ得た国家的・組織的なappropriationの一部について、ICCでは新たな犯罪成立上の障害を設けている。

5. なぜpillageだけ、この変更をする必要があったのか

ここまで見ると、private or personal useという要件について、一つの説明上の空白が残る。

Elements of Crimesの形成過程で、ローマ規程本文にはない実質的な要件が追加されたこと自体は、pillageだけに見られる現象ではない。

genocideやchild soldiersの例からも分かるように、Elementsの形成時には、犯罪の射程について実質的な政策判断が行われていた。

したがって、pillageに追加要件が置かれたこと自体が異常なのではない。

問題は、その変更の内容と説明の関係にある。

他の主要な変更では、少なくとも何を解決しようとしていたのかを比較的追うことができる。

これに対してpillageでは、従来法には存在しなかったprivate or personal useという要件が形成過程の途中で導入され、より直接的に合法なappropriationと違法なappropriationを区別する案が存在したにもかかわらず、その案は採用されなかった。

そして、最終的に採用された要件によって外れ得るのは、歴史的なpillageの周辺的な類型ではなく、国家、軍、占領当局による組織的なappropriationという主要な類型である。

それにもかかわらず、なぜその結果が必要だったのかについて、genocideのmanifest patternのような明確な政策的説明は見当たらない。

この点は、国家による歴史的なappropriationとの関係でも無視しにくい。

戦争、占領、植民地支配などの過程で行われた大規模なappropriationは、必ずしも個人の私腹を肥やす形で行われるわけではない。

占領地域の企業や工場を国家管理に置くこと、資源を本国経済へ組み込むこと、文化財を国立機関へ移転すること、財産を国家や公的機関の制度内部へ編入することなど、国家によるappropriationの多くはpublicまたはofficialな目的の形式を取る。

このようなappropriationは、歴史的にはplunderとして問題となり得た一方で、private or personal useという要件の下ではICC上のpillageとして扱いにくくなる。

もちろん、このことだけから、private or personal useが植民地支配や過去の国家的なappropriationについての責任追及を回避する目的で導入されたと結論することはできない。

現在確認できる公開された形成過程の資料には、そのような目的を明示した説明は見当たらない。また、ICCにはArticle 11による時間的管轄の制限が別途存在するため、ICC成立以前に行われたappropriationが、現在も財産が保持されているという理由だけで当然にICCの管轄へ入るわけでもない。

したがって、private or personal useを単純に過去の国家的appropriationを保護するための要件と説明することには慎重である必要がある。

しかし、因果関係を断定できないことによって、この要件自体の問題が消えるわけではない。

むしろ、ここでは二つの可能性を考える必要がある。

一つは、国家的・公的なappropriationをpillageから切り離すことについて、Elementsを形成した国家側に何らかの積極的な政策的理由が存在した可能性である。その場合には、なぜその区別が必要だったのかが説明される必要がある。

もう一つは、そのような特別な政策的理由は存在せず、pillageとseizureの重複を整理する過程でprivate or personal useという限定が採用され、そのまま現在まで維持されている可能性である。

もし後者であるなら、問題はより単純になる。

private or personal useは、従来のpillage一般に必要な要件ではない。

合法なappropriationを除外するためにも必要ではない。

歴史的なpillageとの連続性を高めるものでもない。

それどころか、歴史的なplunderの主要類型である国家的・組織的なappropriationの一部を犯罪の射程から外し得る。

そのような要件について特段の政策的理由が存在しないのであれば、なぜ現在まで維持する必要があるのだろうか。

private or personal useを削除し、appropriationが所有者の意思に反して行われ、かつ国際人道法上正当化されないものであるかを直接判断する構成の方が、歴史的なpillageとの連続性という点でも、犯罪の対象を明確にするという点でも自然であるように見える。

したがって、問題は必ずしも、private or personal useが過去の国家的appropriationについての責任追及を避けるために導入されたことを立証できるかどうかではない。

より基本的な問いは、その一段手前にある。

Elements of Crimesが実質的な政策判断の場であり、他の犯罪では追加要件の政策的理由を相当程度追跡できるにもかかわらず、なぜpillageについては、より自然な構成を捨て、歴史的な犯罪の主要類型を外し得る方向へ犯罪概念を変更する必要があったのか。

そこに特別な政策的理由があるのであれば、その理由が説明されるべきである。

そして、そのような理由がないのであれば、private or personal useという要件自体を現在まで維持する必要があるのかが問われることになる。

東大卒にノブレス・オブリージュを課すには、どのような条件が必要か

東大卒のように高い社会的評価を受けやすい学歴を持つ者について、一般の人よりも強い社会的責任を負うべきだ、あるいは社会から受けた利益を還元すべきだ、という議論がある。東京大学が国立大学であり、公的資金によって支えられていることや、その卒業者が就職、所得、社会的地位などの面で有利な位置を占めやすいことから、このような主張には一定の分かりやすさがある。

もっとも、「東京大学には公費が投入されている」「東大卒は社会的に有利である」という事実から、東大卒という属性そのものに特別な義務が発生するかどうかは別の問題である。公的制度から受益した者に返済を求めるという考え方、社会的に有利な者により大きな負担を求める一般的な分配原理、そして東大卒というラベルが何を表しているのかという問題は、それぞれ異なる論点である。

ここでは、東大卒にノブレス・オブリージュを認めること自体の是非を直接論じるのではなく、そのような追加的義務を導くためには、どの原理を採用すればどこまで到達できるのかを検討する。

1. 公費による受益から特別な返済義務を導けるか

最も素朴な説明は、国立大学には公費が投入されており、その教育を受けた者は社会から経済的利益を受けているのだから、それに対応する還元義務を負う、というものである。

この議論を成立させるためには、まず東京大学に在籍したことによって個人がどの程度の公的受益を受けたのかを切り出す必要がある。しかし、これは見た目ほど容易ではない。

個人は生まれてから死ぬまで、教育、医療、社会保険、治安、司法、道路、都市インフラ、行政サービス、年金など、さまざまな制度を通じて公的な便益を受けている。その程度には大きな個人差があり、健康状態、家族構成、居住地域、所得、年齢などによって、生涯に受ける給付と負担の構成も異なる。大学授業料への公的な充当は、その中の一つの項目にすぎず、多くの場合、それだけが他の公的受益から明確に突出しているわけではない。

したがって、公的制度から利益を受けたという事実そのものを返済義務の根拠とするのであれば、大学以外の受益についても同じ原理を適用する必要がある。医療サービスを多く利用した者、年金制度から相対的に大きな純給付を受けた者、公共投資によって保有資産の価値が上昇した者などについても、それぞれの受益に応じた追加的な返済義務を考えることになる。

しかし、社会全体における受益者と負担者を個人単位で切り分けることは難しい。ある制度から直接給付を受けていなくても、その制度によって家族の負担が減少したり、企業活動の費用が低下したり、財やサービスの価格を通じて間接的な利益を受けたりすることがある。逆に、直接的には大きな給付を受けていても、生涯を通じた税や社会保険料の負担を考えれば、全体として大きな純受益者とはいえない場合もある。

極端な事例であれば、生涯を通じて大量の給付を受け、ほとんど負担をしていない者を純受益者として把握することはできる。しかし通常の社会生活では、複数の制度が密接に結び付いているため、個人ごとの純受益を客観的に確定することは容易ではない。大学授業料への公的負担だけを取り出し、そこから特別な人格的義務を導くためには、なぜその受益だけが他の公的受益と異なるのかを追加的に説明する必要がある。

大学については、受益の帰属を考えるうえでもう一つ問題がある。大学、とりわけ選抜性の高い大学の学歴には、一定の選抜過程を通過したという情報が含まれている。大学教育そのものによる人的資本形成の効果を小さく見積もるとしても、入学時の選抜や在学中の評価が一定の能力や適性と相関している限り、企業や行政機関は学歴を採用や配置のための情報として利用することができる。大学がこのような情報を生産しているのであれば、社会側も選抜コストの削減という利益を受けていることになる。

この場合、大学制度への公的支出を、学生個人に対する一方向的な給付として扱うことはできない。学生は学歴という利益を得る一方で、企業や行政機関はその学歴が持つ情報を利用し、社会全体も人材の選抜や配置に大学制度を利用している。大学への公費投入が存在するというだけでは、その受益を卒業生個人に帰属させ、その金額に対応する返済義務を設定することは難しい。

もっとも、社会から与えられた特別な資格や権限に、通常の市民にはない義務を対応させる制度は現実に存在する。医師、弁護士、その他の資格職では、一定の業務を独占的に行う資格や、公的に認められた専門的権限が与えられる一方で、守秘義務、利益相反規制、専門職としての注意義務、懲戒責任などが制度上明示されている。

この場合に特別な義務が生じる理由は、資格保有者が社会から多くの利益を受けたからではない。資格制度そのものが、特別な権限と特別な義務を一体として設定しているからである。東大卒という学歴については、これと同様の制度的対応関係は存在しない。

したがって、公費による受益という原理から導けるとしても、それは公的制度一般における受益と負担の問題までであり、東大卒という属性に固有の追加義務までは届かない。

2. 有利な者がより多く負担すべきだという一般的な分配原理

公費による具体的な受益関係を離れて、社会的に有利な位置にいる者は、そうでない者よりも大きな負担をするべきだ、という原理を採用することもできる。

この考え方は、東大卒に限らず、所得、資産、機会、生活上の余裕などに差が存在する社会では広く用いられている。所得が高い者により高い税負担を求める累進課税や、資産、相続、消費などを課税対象とする制度は、それぞれ異なる理論的根拠を持ちながらも、経済的に有利な者に相対的に大きな負担を求める仕組みとして理解することができる。

この原理を採用すれば、東大卒が結果として高い所得や資産を得ている場合に、それに応じてより大きな租税負担を求めることはできる。しかし、その場合に問題となるのは東大卒であることではなく、現実にどの程度の経済的能力を持っているかである。

同じ所得と資産を持つ二人がいて、一人が東大卒で、もう一人が別の教育経路や職業経路を通じて同じ経済的地位に到達したとする。一般的な分配原理だけを採用するのであれば、両者の負担を異ならせる理由は通常存在しない。両者が同じ負担能力を持つのであれば、同じ基準の下で同程度の負担を求めることになる。

したがって、「社会的に有利な者はより多く負担すべきである」という原理は、東大卒が高所得者である場合に高い税負担を課すことまでは正当化できるが、東大卒という属性そのものに通常の租税とは別の義務を付加することはできない。

これは制度的な実現方法とも関係している。社会的・経済的な格差を調整することが目的であれば、現実には所得税、資産課税、社会保険、各種給付などを通じて一般的なルールとして実現することができる。そこでは、個々人がどのような経路を通じてその地位に到達したのかを逐一評価する必要はない。

東大卒に対して、同じ所得を持つ非東大卒よりもさらに大きな社会的還元を求めたいのであれば、一般的な分配原理だけでは不足する。必要になるのは、東大卒という属性自体に特別な規範的性質があるという別の説明である。

3. 東大卒というラベルは、それ自体が独立した財なのか

ここで、東大卒という属性そのものに注目する必要がある。

東大卒という名称は、社会制度によって与えられるラベルである。大学制度が存在し、入学者を選抜し、一定の課程を修了した者に学位を与えることによって、そのラベルは成立している。この意味で、東大卒という地位が制度的なものであることは間違いない。

しかし、そのことから直ちに、東大卒というラベルをそれ自体で独立した希少財として扱うことが適切であるとは限らない。

学歴には、単なる名称や名誉とは異なり、選抜結果についての情報が含まれている。大学教育そのものによる能力形成を小さく評価するとしても、入学時の選抜や在学中の評価が一定の能力、適性、継続性などと相関している限り、東大卒というラベルは、その人物が特定の選抜過程を通過したという情報を圧縮して表している。

この場合、企業や行政機関が評価している対象は、「東大卒」という文字列だけではない。その背後にある選抜結果が一定の情報を持つからこそ、そのラベルが利用される。

この点は、身体能力やその他の能力差を考えると分かりやすい。ある人物が非常に足が速く、その能力によって競技上あるいは経済上の利益を得ているとしても、「足が速いという有利な属性を持っているから、足が遅い者に特別な還元義務を負う」とは通常考えない。数学的能力、記憶力、反応速度、音楽的能力などについても同様であり、ある能力が社会で高く評価されることと、その能力を持つこと自体が非保有者への債務を発生させることは別の問題である。

東大卒というラベルも、少なくとも一部はこのような能力差や選抜結果についての情報として機能している。もちろん、入試で測定されるものと社会で必要とされる能力が完全に一致しているわけではないし、家庭環境や教育機会など、選抜結果に影響する他の要素も存在する。しかし、それでも選抜結果が何らかの実質的な属性と相関している限り、ラベルそのものと、そのラベルが参照している属性を区別する必要がある。

この区別をしないまま、東大卒という地位を社会的に分配される希少財として扱うと、問題の性質を取り違える可能性がある。

仮に、東大卒という地位の分配を平等にするために選抜の実質をなくし、希望者全員に同じ学歴を与えたとする。その場合、それまで一部の者が持っていた同じ財を多数の者へ再分配したことにはならない。選抜との対応関係が失われれば、東大卒というラベルの情報内容が変化し、その社会的価値も変化するからである。

これは、実際には100メートルを15秒で走る者にも10秒台で走る者にも同じ「100メートル10秒台」という証明書を配ることに近い。証明書を平等に分配した結果として、10秒台で走れるという能力まで平等に分配されるわけではない。むしろ証明書と実質的な能力との対応関係が失われ、証明書そのものの価値がなくなる。

したがって、東大卒というラベルの分配を論じるときには、そのラベルが何を参照しているのかを考える必要がある。ラベルの価値が実質的な選抜結果に依存しているのであれば、ラベルだけを独立した財として再分配することには限界がある。

さらに重要なのは、仮に東大卒という属性が一定の能力や適性についての有効なシグナルであり、それによって本人が社会的利益を得ているとしても、そのことから特別な還元義務が直ちに導かれるわけではないことである。

もし、社会で高く評価される能力を持つ者は、その能力を持たない者に対して追加的な義務を負うという原理を採用するのであれば、その原理は東大卒だけに適用することはできない。身体能力、認知能力、芸術的能力、対人能力など、社会的・経済的価値を持つあらゆる能力差について同じ問題が生じる。

この場合、問題は「東大卒だから還元すべきか」ではなく、「社会的に価値のある能力を持ち、それによって利益を得る者一般に、その能力を理由とする特別な義務があるのか」という、より広い問題になる。

ここでも、一般的な分配原理とは区別が必要である。能力差によって高い所得を得た者に高い税負担を求めるのであれば、それは前節のように所得や資産を基準とする制度として処理することができる。しかし、所得とは別に、特定の能力や選抜結果そのものを理由として追加的な義務を課すのであれば、なぜその能力の保有が他者への債務を発生させるのかという別の原理が必要になる。

したがって、東大卒という属性を実質的な選抜結果についてのラベルとして理解する場合にも、そのラベルの保有から東大卒固有の追加義務までは導かれない。

4. 東大卒という属性に固有の義務は、どこから生じるのか

以上の三つの構成を比べると、それぞれが説明できる範囲は異なっている。

公費による受益を基礎にする場合には、一定の公的負担と一定の受益が存在することは示せる。しかし、大学授業料への公費充当は個人が生涯に受ける多様な公的受益の一部であり、それだけを特別な債務の根拠とすることは難しい。また、大学が選抜やシグナル生産の機能を持つのであれば、その制度による利益は学生本人だけではなく、企業やその他の社会組織にも及んでいる。この原理からは、公的制度全般における受益と負担の問題までは導けるが、東大卒という属性に固有の追加義務までは導けない。

社会的に有利な者により大きな負担を求める一般的な分配原理を採用した場合には、高所得者や資産保有者により大きな負担を課すことができる。しかし、その実現方法は通常、所得や資産などを基準とした租税や社会保障制度であり、東大卒であるかどうかは直接の基準にはならない。この原理からは一般的な再分配までは導けるが、同じ経済的地位にある非東大卒者とは異なる追加義務までは導けない。

さらに、東大卒という属性を、実質的な選抜結果についてのラベルとして理解することができる。選抜結果が一定の能力や適性についての情報を持つのであれば、東大卒というラベルの社会的価値は、その選抜との対応関係に依存している。そのため、ラベルだけを通常の財のように再分配することはできない。また、選抜された能力や適性によって社会的利益を得ているという事実だけから、その能力を持たない者への特別な債務が発生するわけでもない。

したがって、「東大卒には社会への特別な還元義務がある」という命題を、単に望ましい人格や社会貢献への期待ではなく、東大卒であることを理由として一般の市民より追加的に負う義務として理解するのであれば、その義務を支える原理は以上のいずれとも異なるものになる。

必要になるのは、社会的に価値のある特定の属性、能力、資格、あるいは選抜結果を保有すること自体が、それを保有しない者に対する追加的な義務を発生させるという原理である。さらに、その原理を採用する場合には、どのような属性が対象になるのか、その属性から生じる利益の大きさと義務の強さをどのように対応させるのか、通常の租税による再分配とどのように区別するのか、同様に価値のある他の能力や資格にも同じ原理を適用するのかを説明する必要がある。

東大卒にノブレス・オブリージュがあるという主張は、その意味では単一の直感から直接導かれるものではない。公費による受益、社会的な優位、選抜によって示される能力や適性というそれぞれの要素から一定の規範的結論を導くことはできるが、いずれの原理も、それだけでは東大卒という属性に固有の追加義務までは到達しない。

東大卒に特別なノブレス・オブリージュを認めるのであれば、問題になるのは、東大卒がどれほど恵まれているかという事実認識だけではなく、その属性を持つことから、なぜ通常の租税や一般的な社会的義務を超えた負担が発生するのかという規範的な接続である。その接続をどのような原理によって説明するかが、この主張を成立させるための中心的な問題になる。

ICCの創造的司法三選

国際刑事裁判所(ICC)は、ローマ規程という条約によって設立された国際裁判所であり、その管轄権も基本的には条約上の条件に従って成立する。ローマ規程12条によれば、原則として、犯罪となる行為が締約国の領域で行われた場合、または被疑者が締約国の国民である場合にICCの管轄権が成立する。非締約国であっても、12条3項によって個別にICCの管轄権を受諾することができる。また13条は、締約国による付託、国連安全保障理事会による付託、検察官による職権捜査という三つの手続を定めている。

もっとも、現実の事件は、締約国の国民が締約国領域内で犯罪を行ったという単純な形をとるとは限らない。犯罪が締約国と非締約国にまたがることもあれば、そもそもどこまでを国家の「領域」と考えるべきか自体が争われている場合もある。また、国家がローマ規程に正式加盟することなく、一定の期間や一定の領域についてのみICCの管轄を受諾することも可能である。

このような境界的な事案について、ICCは単に加盟国か非加盟国かという二分法で処理してきたわけではない。ローマ規程の条文を前提としながら、犯罪の場所、領域の意味、非締約国との接続といった問題について具体的な法的構成を選択し、その結果として、一見するとICCの外側にある事案を管轄の内部へ取り込んできた。

ここでいう「創造的司法」とは、裁判所が条文に存在しない権限を自由に作り出すことを意味しない。むしろ、既存の条文からどの事実を管轄上重要なものとして抽出し、どのように事件をローマ規程の制度へ接続するかについて、比較的積極的な解釈を行ってきたという意味である。その性格をよく示すのが、ロヒンギャ、パレスチナ、ウクライナの三つの事例である。

1. ロヒンギャ――犯罪を構成要素に分解する

2017年、ミャンマーのラカイン州から多数のロヒンギャが国外へ逃れ、その多くが隣国バングラデシュへ移動した。ICCにとって直ちに問題となったのは、ミャンマーがローマ規程の締約国ではないという点だった。国連安全保障理事会による付託も存在しなかったため、ミャンマー国内だけで完結する犯罪であれば、通常の12条2項からICCの管轄権を導くことは難しかった。

しかし、バングラデシュはローマ規程の締約国だった。そこでICC検察官が着目したのが、人道に対する罪としてのdeportation、すなわち国外追放という犯罪の構造である。

国外追放は、単にある地域から人を追い出すだけではなく、国境を越えて別の国家の領域へ移動させることによって成立する犯罪である。ロヒンギャの場合、強制的な移動を生じさせた行為の中心はミャンマー側に存在していたが、被害者が実際に国境を越えてバングラデシュへ到達することによって犯罪が完成するという構造があった。

このため問題となったのは、一つの犯罪が非締約国と締約国の双方にまたがる場合、ローマ規程12条2項(a)の領域的管轄が成立し得るかという点だった。2018年9月、ICC予審裁判部はこれを肯定し、犯罪のすべての構成要素が締約国領域内で行われる必要はなく、少なくとも一つの構成要素または犯罪の一部が締約国領域で実現していれば、領域管轄が成立し得ると判断した。

この判断の特徴は、犯罪が「どの国で行われたか」を一つの国家へ一括して帰属させなかったことにある。ミャンマー当局による行為の大部分が非締約国領域で行われていたとしても、国外追放という犯罪を構成要素に分解すれば、その完成には締約国であるバングラデシュ領域で生じる事実が必要になる。ICCはその部分を管轄上の接点として取り出した。

しかも、この考え方は国外追放だけに閉じたものとはされなかった。犯罪の一部が締約国領域で行われるという構造が存在するならば、他のICC管轄犯罪についても同様の領域的接続が成立し得るとされた。2019年には、この法的構成を前提としてバングラデシュ/ミャンマー情勢について捜査開始が承認されている。

ロヒンギャ事件でICCが行ったのは、非締約国で行われた犯罪一般に管轄権を拡張することではない。犯罪を場所的・構成要素的に分解し、その一部が締約国領域で実現していることを根拠として、事件をICCの領域管轄へ接続したのである。

2. パレスチナ――制度内部で「領域」を確定する

パレスチナ情勢では、ロヒンギャよりさらに前段階の問題が生じた。ローマ規程12条2項(a)によって領域管轄を判断するためには、まず犯罪が「どの国家の領域」で行われたのかを確定する必要がある。しかしパレスチナについては、国家性と領域の範囲そのものが国際政治上争われている。

パレスチナは2015年1月にローマ規程へ加入し、同年4月に締約国となった。またそれ以前に12条3項による宣言を提出し、2014年6月13日以降の犯罪についてICCの管轄を受諾していた。その後、ICC検察官はパレスチナ情勢について捜査開始の要件が満たされていると判断したが、捜査を進めるためにはICCの領域管轄が具体的にどこまで及ぶのかを明らかにする必要があった。

そこで検察官は2020年、ローマ規程19条3項に基づいて予審裁判部へ判断を求めた。2021年2月、予審裁判部は多数意見により、ICCの領域管轄がガザ地区、西岸地区、東エルサレムを含む、1967年以来イスラエルが占領している地域に及ぶと判断した。

もっとも、裁判部は一般国際法上の国家性を包括的に決定したわけではない。パレスチナが国際社会一般においてどのような国家的地位を持つか、またイスラエルとパレスチナの最終的な国境がどこにあるかについて、ICCが決定する権限を持つわけではないことも明示している。

その一方で、ローマ規程の適用という限定された文脈では、パレスチナが通常の手続によって締約国となっていることを重視した。裁判部は、パレスチナの加入がローマ規程上受け入れられ、締約国として扱われている以上、ICCが管轄判断の段階でその地位を独自に否定することはできないとした。

そのうえで、国連総会決議なども参照しながら、ICCの刑事管轄の目的に限って、ガザ地区、西岸地区、東エルサレムをパレスチナのterritoryとして扱った。ここでICCは、一般国際法上の国家性と国境問題を全面的に解決することなく、ローマ規程の制度内部で管轄判断に必要な範囲の国家性と領域概念を確定している。

この判断は全員一致ではなく、Kovács裁判官は反対意見を付している。しかし多数意見が採用されたことで、その後の捜査はこの領域的管轄を前提として進められ、2024年にはベンヤミン・ネタニヤフ首相とヨアヴ・ガラント前国防相に対する逮捕状も発付された。

ロヒンギャ事件では、犯罪の構成要素を分解することで締約国との接点が作られた。これに対してパレスチナ事件では、そもそも何を締約国の「領域」として扱うのかについて、ICC自身が制度内部の解釈を与えたのである。

3. ウクライナ――非締約国を制度へ接続する

ウクライナ情勢は、前二例とは少し性質が異なる。ここではICCが判例によって新しい管轄理論を作ったというより、ローマ規程自身が用意していた12条3項という仕組みが、大規模な国際紛争に実際に利用されたことが重要になる。

ローマ規程12条3項によれば、非締約国は、ICC書記局へ宣言を提出することによって、自国領域で行われた一定の犯罪についてICCの管轄権を受諾することができる。正式にローマ規程へ加入しなくても、一定の期間や領域についてICCの刑事管轄を受け入れることが可能である。

当時ローマ規程の締約国ではなかったウクライナは、この制度を二度利用した。2014年の第一の宣言では、2013年11月21日から2014年2月22日までにウクライナ領域で行われた犯罪についてICCの管轄を受諾し、2015年の第二の宣言では、その範囲を2014年2月20日以降へ拡張した。

この結果、ウクライナは正式加盟前から、自国領域についてICCの管轄を受け入れていた。領域国がICC管轄を受諾していれば、その領域で犯罪を行ったとされる人物の国籍国まで締約国である必要はない。そのため、ロシアが非締約国であること自体は、ウクライナ領域で行われたとされる犯罪についてロシア国民にICCの管轄が及ぶことを妨げない。

2022年3月、ロシアによる全面侵攻後、ICC検察官はウクライナ情勢について捜査を開始した。ここで用いられた法的構造は条文上比較的明確であり、ロヒンギャやパレスチナほど解釈上特殊なものではない。しかし、ICCの管轄体系が「正式加盟国か完全な外部者か」という二択ではないことを示す点では重要である。

非締約国であっても、自国領域を部分的にICC管轄へ接続することができる。そして一度その接続が成立すれば、その領域で行動する別の非締約国の国民もICC管轄の対象になり得る。ローマ規程は、加盟という形式だけではなく、領域、犯罪の構成要素、個別の管轄受諾といった複数の方法によって事件をICCへ接続する制度になっている。

北朝鮮拉致の場合

この三つの事例を踏まえると、北朝鮮による拉致事件についても、単に北朝鮮がローマ規程の非締約国であるというだけで検討が終了するわけではないことが分かる。

北朝鮮はローマ規程の締約国ではなく、12条3項による管轄受諾も行っていない。そのため、北朝鮮国内で完結し、加害者も北朝鮮国民である犯罪については、安保理付託などがない限りICCの管轄を成立させることは難しい。

しかし、日本人拉致については事情が異なる。少なくとも一部の拉致行為は日本領域で行われており、被害者や証人も日本に存在する。他方、日本政府が認定している主要な拉致事件は1970年代から1980年代に発生しており、日本についてローマ規程が発効した2007年より前である。このため、ICC検察局もこれまで時間的・領域的・人的管轄の不足を理由として捜査開始に至っていない。

ここで問題となるのが、強制失踪という犯罪の継続的性質である。ローマ規程7条は、人道に対する罪の一類型としてenforced disappearance of personsを定めており、国家または政治組織による逮捕、拘禁または拉致と、その後の自由剥奪の承認や消息・所在に関する情報提供の拒否を犯罪構成の一部としている。国際人権法上、強制失踪は一般に、被害者の運命や所在が明らかになるまで継続する性質を持つものとして扱われてきた。

したがって、拉致行為そのものが1970年代に行われたという事実だけから、現在まで続く強制失踪についての法的評価がすべてその時点で終了するとは限らない。被害者が現在も拘束され、その拘束が認められず、所在や消息について情報が提供されていないのであれば、その継続部分をICCの時間的管轄との関係でどのように扱うべきかという問題は残る。

もちろん、国際人権法上の継続的違反という概念を、そのままローマ規程上の犯罪成立や時間的管轄へ移すことができると決まっているわけではない。ICCのElements of Crimesにも時間的管轄との関係で制約となり得る記述があり、発効前に開始された強制失踪をICC法上どこまで継続犯罪として扱うことができるかについては議論がある。

しかし、ここで重要なのは、この問題が法的に完全に閉じられているわけでもないことである。2024年の国連北朝鮮特別報告者報告は、被害者団体などが、失踪者が発見されるかその消息が明らかになるまで犯罪が継続する以上、ICCには時間的管轄が存在し得ると主張していることを紹介している。また同報告は、この問題について議論が継続していることを明示し、ICCがブルンジ情勢で一定の犯罪の継続的性質を考慮した判断にも言及している。

この点を最初の三例と比較すると、問題の所在はより明確になる。

ロヒンギャ事件では、犯罪の大部分が非締約国で行われていたにもかかわらず、ICCは犯罪を構成要素に分解し、締約国領域で実現する部分を管轄上の接点として用いた。パレスチナ事件では、国家性と領域そのものが争われていたにもかかわらず、一般国際法上の問題を全面的に解決することなく、ローマ規程内部で必要となるterritoryを確定した。ウクライナについては、非締約国による12条3項の受諾を通じて、その領域で行動する別の非締約国国民にまでICC管轄が及ぶ構造が利用された。

つまりICCは、管轄の境界にある事件に対して、形式的な障害を確認した時点で一律に検討を停止してきたわけではない。既存の条文を前提としながら、犯罪の構成要素、領域概念、管轄受諾といった法的素材を組み合わせ、事件ごとに管轄への接続方法を構成してきた。

そうであるなら、北朝鮮拉致事件についても、問題は単に「拉致が日本のICC加盟前に行われた」という一点だけではない。強制失踪が現在までどのように継続しているのか、現在の拘禁や消息の秘匿を独立した犯罪行為または犯罪の継続部分としてどのように評価できるのか、そして日本領域で開始された拉致との接続をどこまで維持できるのかを検討する余地がある。

2024年の国連北朝鮮特別報告者報告が、安保理付託だけでなく、締約国領域内のincidentと結びつくcrimes against humanityについて、ICCへ付託するための「innovative ways」を検討するよう締約国に求めていることも、この文脈では重要である。少なくとも国連の側でも、既存の管轄構造の内部でどこまで新しい接続を構成できるかという問題が、なお検討対象として残されている。

ロヒンギャやパレスチナでICCが示してきたのは、管轄の境界線が最初から自明に引かれているわけではなく、その境界自体が具体的事件に即した法的解釈によって形成されるということである。北朝鮮拉致について同じ程度の法的構成を試みるのであれば、強制失踪の継続性と日本領域との接続は、少なくとも検討されるべき素材に含まれる。

問題は、ローマ規程の外側に新しい権限を作ることではない。ICCがこれまで他の境界事例で行ってきたのと同様に、既存の条文の内部で、どの事実を管轄上意味のある接点として評価するかという問題である。

ICCはなぜ国家元首を逮捕できるのか

国際刑事裁判所(ICC)は、ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪などについて個人の刑事責任を追及するために設立された国際裁判所であり、国家元首や政府首脳についても逮捕状を発付することがある。

もっとも、国家元首に対する刑事手続は、通常の国際法では特別な問題を生じさせる。現職の国家元首など一定の高位国家機関には外国の刑事裁判権からの免除が認められており、その免除は、問題となっている行為が重大な国際犯罪であるという理由だけで当然に失われるものではないからである。

そのため、ICCが国家元首について刑事管轄権を行使できるという結論を理解するには、通常の国家間関係における刑事管轄権と国家元首の免除がどのように構成されており、ICCがそこからどのような点で異なる法的関係を想定しているのかを見る必要がある。

1. 通常の国際法では国家元首に免除が認められる

国家は、原則として自国の領域内で行われた犯罪について刑事管轄権を有する。外国人が日本国内で犯罪を行った場合、その人物の国籍国の同意を得ることなく日本の裁判所が刑事裁判を行うことができるのは、この属地主義による刑事管轄権のためである。

ただし、刑事管轄権が存在することと、その管轄権を特定の人物について実際に行使できることは同じではない。相手が外国の現職国家元首などである場合には、国際法上の免除が問題になる。

現職の国家元首、政府の長、外務大臣など一定の高位国家機関については、その在任中、外国の刑事裁判権から広い人的免除が認められる。この免除は、その人物の私的利益を保護するための特権というよりも、その人物が国家を代表して職務を遂行することを妨げないための制度として理解されている。

国際司法裁判所(ICJ)は、2002年の「逮捕状事件」でこの考え方を明確に示している。この事件では、ベルギーがコンゴ民主共和国の現職外務大臣に対し、戦争犯罪および人道に対する罪への関与を理由として国際逮捕状を発付したことが問題となった。

ICJは、現職外務大臣に認められる免除は本人の私的利益のためではなく、国家を代表する職務を有効に遂行できるようにするためのものであると説明し、在任中の外務大臣には外国の刑事裁判権からの免除と身体の不可侵が認められると判断した。

この判断で重要なのは、刑事管轄権と免除が別の問題として扱われていることである。ある国家が特定の犯罪について刑事管轄権を持っていても、国際法上の免除が存在する場合には、その管轄権の行使が妨げられることがある。

2. 国際犯罪であれば免除がなくなるわけではない

戦争犯罪や人道に対する罪のような重大な国際犯罪については、国家元首や政府高官であっても免除を認めるべきではないという考え方は理解しやすい。

しかし、少なくとも外国の国内裁判所による刑事手続について、国際法がそのような一般原則を確立しているとはされていない。

逮捕状事件でも、ベルギー側は、戦争犯罪や人道に対する罪のような重大な国際犯罪については、現職外務大臣の免除に例外が認められるべきであると主張していた。これに対しICJは、各国の国内法や裁判例を検討したうえで、現職外務大臣について、戦争犯罪または人道に対する罪を理由とする刑事手続だからといって人的免除が失われるという慣習国際法上の例外を確認することはできないとした。

もっとも、免除が認められることは、その人物が刑事責任を負わないことを意味しない。人的免除は、特定の国家の裁判所が一定の時点で刑事手続を行うことを制限するものであり、犯罪行為そのものを適法化したり、刑事責任を消滅させたりするものではない。

したがって、通常の国家間関係では、国際犯罪であることと国家元首などに認められる人的免除とは別の問題として整理されている。

3. ICCでは公的地位による免責を認めない

ICCは国家そのものに刑罰を科す裁判所ではなく、国際犯罪に関与した自然人の個人刑事責任を扱う裁判所である。

ローマ規程25条は、ICCが自然人について管轄権を持つことを定めている。また27条は公的資格について明示的な規定を置いており、国家元首、政府首班、政府または議会の構成員、政府職員などの公的資格によってローマ規程上の刑事責任が免除されることはないとしている。

さらに27条2項は、その公的資格に付随する国内法上または国際法上の免除や特別な手続規則も、ICCによる管轄権の行使を妨げないと定めている。

ローマ規程の締約国について考える限り、この制度には比較的分かりやすい説明が可能である。締約国はローマ規程に加入することによって、ICCとの関係では公的資格やそれに付随する免除を管轄権行使の障害としない制度を受け入れているからである。

問題が複雑になるのは、ローマ規程に加盟していない国家の国家元首についてICCが管轄権を行使しようとする場合である。非加盟国はローマ規程27条を条約上受諾していないため、ローマ規程にそのような規定が存在するというだけでは、非加盟国との関係をすべて説明することはできない。

4. ICCは一定の場合に非加盟国国民についても管轄権を認めている

ICCの管轄権は、被疑者の国籍国がローマ規程の締約国である場合だけに限定されていない。

ローマ規程12条2項は、安保理による付託などを除く通常の管轄権行使について、犯罪が行われた領域の国家が締約国である場合、または被疑者の国籍国が締約国である場合を管轄権行使の基礎としている。

そのため、犯罪地が締約国の領域であれば、被疑者の国籍国がローマ規程に加盟していなくても、ICCはその人物について管轄権を行使できるというのがローマ規程上の制度である。

この部分は、通常の属地主義と共通する考え方を持っている。一般に、国家が自国領域内で行われた犯罪について外国人を裁く場合、その外国人の国籍国から個別に同意を得る必要はない。ICCも、犯罪地という領域的な接続を管轄権の基礎の一つとしている。

もっとも、この点についても国際法上の議論が存在する。領域国が有する刑事管轄権との連続性から、非加盟国国民にICCの管轄権を及ぼすことは許容されるとする見解が有力である一方、条約によって設立された国際裁判所が、非加盟国自身の同意なしにその国民へ刑事管轄権を及ぼせるのかという点には異論もある。

ただし、この一般的な非加盟国国民への管轄権の問題と、非加盟国の現職国家元首についての問題は同じではない。

通常の国家間関係では、領域国に刑事管轄権が存在していても、現職国家元首の人的免除によってその行使が制約される可能性がある。非加盟国はローマ規程27条を自ら受諾したわけでもないため、国家元首の場合には、管轄権が成立するかという問題に加えて、免除がICCとの関係でも作用するかという問題が生じる。

5. ICCは国家間の免除と国際裁判所に対する免除を区別している

この問題についてICCが明確な立場を示した代表的な判断が、スーダンのオマル・アル=バシール大統領に関する2019年の上訴裁判部判決である。

ICCは、ダルフール情勢に関してアル=バシールに逮捕状を発付していた。スーダンは当時ローマ規程の締約国ではなく、アル=バシールは現職の国家元首であった。その後、アル=バシールがヨルダンを訪問した際に逮捕されなかったことから、ヨルダンがICCへの協力義務に違反したかどうかが問題となった。

この事件でICC上訴裁判部は、慣習国際法上、国際裁判所に対して国家元首が免除を享有するという規則は存在しないとの判断を示した。

この説明では、国家元首免除が重大な国際犯罪の場合に例外的に失われるという構成は採られていない。

国家元首の人的免除は、ある国家が別の国家の元首に対して刑事管轄権を行使するという国家間の関係において、国家の主権平等や国家機能の遂行を保護するために認められる。これに対してICCは一国家の国内裁判所ではないため、国家間の刑事管轄権行使について成立している免除が、当然にICCとの関係にも適用されるわけではないというのが上訴裁判部の立場である。

したがってICCは、外国国内裁判所に対する国家元首免除と、国際裁判所に対する国家元首免除を区別し、後者について慣習国際法上の規則が成立しているとは認められないとすることによって、現職国家元首についてもICCの管轄権行使を可能としている。

もっとも、この慣習国際法の認定自体が学説上確立しているわけではない。国際裁判所という性質だけから非加盟国元首の免除不存在を導くことができるのか、過去の国際刑事裁判所の実行がそのような一般的な慣習法規則を示していると評価できるのかについては異論がある。

特に、裁判所の設立根拠に当該国家が同意していない場合まで、国際裁判所に対する国家元首免除が存在しないと一般化できるかは、非加盟国元首をめぐる議論の中心的な論点の一つとなっている。

そのため、非加盟国国民一般に対するICCの領域的管轄権を認める立場に立ったとしても、非加盟国の現職国家元首について同じように管轄権を行使できるという結論が自動的に導かれるわけではない。元首免除については、それとは独立した慣習国際法上の問題が残ることになる。

6. アメリカとICCはなぜ長年対立してきたのか

アメリカとICCの対立は、トランプ政権によるICC関係者への制裁や、近年のイスラエルをめぐる対立から始まったものではない。

米国はICCの制度が形成された当初から、ローマ規程に加盟していない国家の国民に対して、国籍国の同意なしにICCが刑事管轄権を行使することに異論を示してきた。

ローマ規程は1998年に採択され、クリントン政権は2000年末に署名したものの、批准を上院に勧告しなかった。ブッシュ政権は2002年、米国がローマ規程の締約国となる意思を有しないことを国連事務総長に通知した。

当時の米国が特に問題視していたものの一つが、非加盟国国民に対するICCの管轄権であった。米国の立場では、国際刑事裁判所が自国民について管轄権を行使するためには、原則として米国自身の同意か、国連安全保障理事会による付託のような別の国際法上の根拠が必要であるとされた。

この問題をめぐる米国の姿勢は、その後の政権によってICCとの距離が変化しても、完全には解消されなかった。

オバマ政権はICCとの実務的な協力を拡大し、締約国会議へのオブザーバー参加や、ICCが訴追する人物に関する情報提供などを行った。しかし、米国がローマ規程に加盟したわけではなく、非加盟国国民に対するICCの管轄権について従来の法的懸念を撤回したわけでもなかった。

第一次トランプ政権では、アフガニスタンにおける米軍関係者の行為をICCが捜査対象としたことなどから対立が強まり、ICC関係者に対する査証制限や経済制裁が導入された。

バイデン政権は2021年にこれらの制裁を解除し、ICCとの協力については前政権より積極的な姿勢を取った。一方で、米国やイスラエルのようなローマ規程非加盟国のpersonnelに対してICCが管轄権を主張することへの「従来からの反対」は維持すると明言している。

したがって、米国の対ICC政策には政権ごとにかなり大きな違いがあるが、非加盟国国民に対するICCの管轄権についての懸念には長期的な連続性がある。

この米国の立場は、国家元首免除に関するICCの解釈よりも前の段階を問題にしている。

ICCの制度では、犯罪が締約国の領域で行われていれば、被疑者の国籍国がローマ規程に参加していなくても管轄権が成立し得る。これに対して米国は、自国がローマ規程に参加せずICCの権限に同意していない以上、自国民をICCの刑事管轄権に服させることには別の法的根拠が必要であるという立場を取ってきた。

ただし、この米国の主張がそのまま国際法学上の一般的な見解であるわけではない。締約国領域で行われた犯罪について非加盟国国民にICCの管轄権を及ぼすことは、通常の属地主義との連続性から国際法上許容されるとする見解も有力である。

その意味で、非加盟国国民一般へのICCの管轄権と、非加盟国の現職国家元首の免除については、議論の状況を分けて見る必要がある。米国は前者から異論を示しているのに対し、後者については、前者を認める立場に立ったとしてもなお独立した法的問題が残る。

結論

ICCが非加盟国の国家元首について刑事管轄権を行使できるとする法的構成には、二つの段階がある。

第一に、犯罪地がローマ規程の締約国の領域であれば、被疑者の国籍国が非加盟国でもICCの管轄権が成立し得るとする。第二に、その人物が現職国家元首である場合について、国家間で認められる人的免除と国際裁判所に対する免除を区別し、後者を認める慣習国際法上の規則は存在しないとする。

前者についても異論は存在するが、特に後者については、ICC上訴裁判部による慣習国際法の認定をどこまで一般化できるかという独立した議論が残されている。

米国はさらに前の段階から、非加盟国国民にICCの管轄権が及ぶという制度構成自体に長年異論を示している。

「私たちの歴史」はいつ「私たちの被害」になるのか

政治的共同体は、自らの成立以前の出来事を「私たちの歴史」として語ることがある。

民族、宗教、社会運動、性的少数者の共同体などでは、現在の成員が直接経験していない出来事も、その共同体にとって重要な過去として記憶されている。現在のフランス人がフランス革命を自国の歴史として語ることや、宗教共同体が数百年前に起きた迫害を自らの歴史の一部として位置づけることは、その分かりやすい例である。

このように、現在の共同体が過去の出来事を共有された記憶として持つこと自体は珍しくない。

しかし、「私たちの歴史」という表現には、いくつか異なる意味が含まれ得る。

ある出来事を「私たちにとって重要な歴史」と位置づけることと、それを「私たちが受けた被害」と表現することは同じではない。また、過去の被害を「私たちに関係する被害」と位置づけることができたとしても、そこから現在の補償、制度変更、優先的な配慮などの具体的な請求が直ちに導かれるわけでもない。

したがって、過去の出来事が現在の政治的共同体によってどのように継承されるのかを考える際には、少なくとも三つの段階を区別する必要がある。

第一は、ある出来事を現在の共同体にとって重要な過去として記憶すること。

第二は、その出来事による被害を、現在の共同体に関係する被害として位置づけること。

第三は、その被害を根拠として、現在の制度や他者に対して何らかの請求を行うことである。

本稿では、この三つの段階の間にどのような接続が必要なのかを考えてみたい。

1. 共同的な記憶から現在の請求まで

まず、現在の共同体がある過去を共有された記憶として持つことと、その過去の被害について現在の共同体が当事者的な立場を持つことを区別する必要がある。

共同的な記憶には、必ずしも直接経験は必要ではない。

現在の成員が生まれる以前の出来事であっても、教育、記念行事、歴史叙述、政治運動などを通じて、その共同体にとって重要な出来事として継承されることはある。また、現在の共同体が成立する以前に存在した運動や人々を、自らの政治的な前史として位置づけることも可能である。

しかし、ある出来事が共同体にとって重要な記憶であることと、その出来事の被害を現在の成員自身に関係する被害として位置づけられることには違いがある。

たとえば、ある地域で起きた植民地主義的な被害を、その地域とは異なる国の人々が重要な歴史として記憶することは可能である。しかし、そのことだけを理由として、その被害を「私たち自身が受けた被害」と表現することが適切になるわけではない。

そこで本稿では、過去の被害と現在の主体の間にどの程度の関係が存在するのかを示すものとして、便宜上「歴史的な当事者性」という考え方を用いる。

ここでいう歴史的な当事者性とは、法的な資格や二者択一的な身分を意味するものではない。過去の被害について、現在の主体が単なる第三者としてではなく、自らに関係する被害として語ることのできる接続が、どの程度存在するかという問題である。

したがって、歴史的な当事者性は「あるか、ないか」だけで判断されるものではない。過去の被害主体と現在の主体との間にどのような接続があり、それがどの程度強いのかを検討するための概念として考える方がよい。

さらに、そのような歴史的な当事者性が認められたとしても、そこから現在の補償や制度変更がそのまま導かれるわけではない。

過去の被害が現在にも何らかの不利益を残しているのか。現在誰がその不利益を受けているのか。誰が是正の負担を負うべきなのか。要求される措置が過去の被害とどのように対応しているのか。これらはそれぞれ別の問題だからである。

したがって、議論の全体は、

共同的な記憶
→ 歴史的な当事者性
→ 現在の不利益
→ 現在の是正措置

という複数の段階に分けて考える方が分かりやすい。

重要なのは、それぞれの矢印が自明ではないことである。

2. 歴史的な当事者性を支える三つの接続

過去の被害と現在の主体の間には、少なくとも三種類の接続を考えることができる。

第一は主体の継承、第二は被害効果の継続、第三は被害を生じさせた属性の対応である。

これらはいずれも、単独で歴史的な当事者性を決定する必要条件や十分条件ではない。過去と現在の関係がどのような性質を持ち、どの程度強いのかを検討するための観点として考える方が適切である。

主体の継承

第一は、過去の被害主体や政治運動と現在の主体との間に、どのような継承関係があるかという問題である。

もっとも分かりやすいのは世代的な継承である。過去に財産を没収された人の子孫が、その出来事を自らの家族史や共同体の歴史として位置づける場合、現在の主体がなぜその過去に関係するのかについては比較的明確な接続がある。

ただし、継承関係は血縁だけに限られない。

政治運動や組織にも継承関係が存在する。ある組織が別の組織の活動を引き継いだり、名称や構成員を変えながら同じ政治的課題を継続したりすることがある。その場合、現在の組織は過去の組織や運動を自らの政治的な前身として位置づけることができる。

このような主体の継承が存在すれば、過去の出来事を現在の共同体にとって重要な歴史として扱う理由は強くなる。

しかし、ある政治運動を継承していることと、その運動の構成員が受けた個々の被害まで現在のすべての成員に帰属することは同じではない。

主体の継承は、過去と現在を結ぶ一つの有力な接続ではあるが、それだけで被害の帰属まで決定するものではない。

被害効果の継続

第二は、過去の被害または制度の効果が現在までどの程度継続しているかという問題である。

過去の出来事が現在にも具体的な効果を残している場合、過去と現在の接続は比較的明確になる。

典型的な例は財産である。ある人や集団から土地や財産が没収され、その結果が現在の所有関係にも残っているのであれば、過去の被害は単なる記憶ではなく、現在の状態を実際に形成している。

教育、雇用、法的地位、社会的スティグマなどについても、同様の連続性が存在する場合はあり得る。

ただし、この種の連続性は単に主張すれば成立するものではない。

財産のように制度上の結果が現在まで直接残っている場合と、長期間にわたる複数の要因を経て現在の格差や社会的位置に影響していると主張する場合とでは、必要となる説明の強さが異なる。

過去の制度を現在の不利益の原因の一つとして位置づけるのであれば、その因果的な接続自体が検討の対象になる。

したがって、「過去に被害が存在した」という歴史的な事実と、「その被害またはその制度的効果が現在まで残っている」という現在についての事実は区別する必要がある。

属性の対応

第三は、過去の制度が人々を選別した属性と、現在の主体を構成している属性との対応である。

迫害や排除は通常、無作為に行われるわけではない。

民族、宗教、性別、特定の性行為、法的身分、政治的所属など、何らかの特徴を理由として人々が分類され、その分類に従って処罰、排除、制限などが行われる。

したがって、現在の主体が過去の被害について自らの当事者性を主張する場合には、当時誰が、何を理由として対象にされたのかと、現在の主体がどのような属性によって構成されているのかを比較する必要がある。

もっとも、歴史上の分類と現在の自己認識カテゴリーが完全に一致する必要はない。

カテゴリー自体が歴史的に変化するため、現在用いられている概念と、過去の刑法、行政、医学などが用いていた分類が一致しないことは珍しくない。

問題になるのは、両者が同一かどうかではなく、過去の対象選別の原理と現在の主体を構成する属性との間に、どの程度の対応が存在するかである。

主体の継承、被害効果の継続、属性の対応は、しばしば重なり合う。

しかし、同じものではない。

政治的な系譜が強くても属性上の対応が弱い場合もあれば、明確な組織的系譜がなくても、過去の制度効果が現在まで直接残っている場合もある。

そのため、過去の被害と現在の主体の関係を考える際には、一つの基準だけで判断するのではなく、どの種類の接続が存在しているのかを分けて見る必要がある。

3. 歴史的な当事者性から現在の請求へ

過去の被害と現在の主体の間に一定の歴史的な当事者性が認められたとしても、そこから現在の具体的な請求が直接に生じるわけではない。

過去に被害が存在したという事実だけから、現在の補償、制度変更、優先的な配慮などの内容を決定することはできないからである。

まず検討する必要があるのは、過去の被害による不利益が現在にも残っているかどうかである。

過去の財産没収が現在の所有関係に残っている場合や、差別的な制度そのものが現在まで維持されている場合には、その効果を是正することと過去の被害との関係は比較的説明しやすい。

これに対して、過去の制度がすでに消滅し、その影響が現在の社会的・経済的な格差として残っていると主張する場合には、その不利益がどのような経路によって現在まで継続したのかを別途示す必要がある。

また、誰が現在その負担を負うべきなのかという問題もある。

過去の加害主体と現在の義務主体が制度的に同一である場合もあれば、そうでない場合もある。

国家や組織が法的・制度的に継続している場合には、過去の行為と現在の義務主体との接続を比較的説明しやすい。他方で、現在の個人に、過去の別の主体が行った行為について何らかの負担を求める場合には、その負担をなぜ当該個人が負うべきなのかについて追加の正当化が必要になる。

さらに、要求される措置と過去の被害との対応関係も問題になる。

財産の没収に対する財産の返還や、現在も継続する差別的な制度の廃止などは、過去の被害または現在の不利益との関係が比較的明確である。

一方、過去の被害を根拠として、それとは異なる領域における現在の利益配分や優先措置を求める場合には、その措置がなぜ適切な是正手段になるのかについて別の説明が必要になる。

現在の請求の程度については比例性も問題になる。

過去の被害の規模、現在まで残っている効果、現在の義務主体との関係、求められる措置の負担などを考慮せず、過去に被害が存在したという事実だけから無限定な現在の請求を導くことはできない。

この点で、歴史的な当事者性と現在の権利請求を分けて考えることは重要である。

ある共同体が過去の被害について強い歴史的な当事者性を持っているとしても、そこから現在どのような制度的措置が必要になるかは別の問題である。

反対に、過去との象徴的な系譜がそれほど強くなくても、現在まで継続する制度的な不利益が存在するのであれば、その現在の不利益自体が制度変更の理由になり得る。

したがって、歴史的な被害をめぐる議論では、「過去に何があったのか」と「現在何をすべきなのか」を一つの問いとして扱うよりも、その間にある接続を一つずつ確認する方が分かりやすい。

4. アジアとLGBTQ

この問題は、現在の政治的カテゴリーと歴史上の被害主体の範囲が一致しない例を見ると分かりやすい。

一つは「アジア」というカテゴリーであり、もう一つはLGBTQである。

両者は成立の経緯も政治的性格も大きく異なる。ここで比較するのは、現在の広い政治的カテゴリーが、その成立以前の複数の歴史をどのように自らの過去として位置づけるのかという点に限られる。

たとえば、19世紀の中国が西洋列強との関係で受けた被害を、現在の日本人が「アジアの歴史」の一部として重要なものと考えることはできる。

しかし、それを「私たちアジア人が受けた被害」と表現する場合には、歴史上の被害主体の範囲が広げられている。

当時の具体的な制度や軍事行動の対象となったのは、中国の国家や住民など特定の主体であり、「アジア人」という現在の広いカテゴリーが一つの主体としてその被害を受けたわけではない。

現在同じ「アジア」というカテゴリーに含まれる国家や集団が、別の時代には互いに加害側と被害側に位置している場合もある。

したがって、現在同じ政治的カテゴリーに属することと、過去に同じ被害経験を共有していたことは区別する必要がある。

LGBTQについても、同じ種類の問題が生じる。

現在のLGBTQ運動には、戦後の同性愛者運動、gay liberation、lesbian activism、bisexual activism、trans activismなどとの政治的な系譜が存在する。そのため、これらを現在のLGBTQの政治史として位置づけることには一定の根拠がある。

一方で、個々の歴史的な被害を見ると、当時の制度が対象としていた属性や主体は同一ではない。

男性間の同性性行為を対象とした刑事規制では、制度が直接問題としていたのは男性間の同性性行為だった。

20世紀の一部の公職排除では、当時同性愛者と分類された人々が行政上あるいは安全保障上の問題として扱われた。

初期のAIDS危機では、疾病負担がgay and bisexual menに大きく集中した。

また、性別規範に適合しない人々への警察的な取締りや、トランスジェンダーの人々に対する法的・医学的な扱いには、それらとは異なる制度的な歴史が存在する。

これらを現在のLGBTQ史の一部として位置づけることはできる。

しかし、それは歴史上LGBTQ全体が一つの主体として同じ被害を受けたことを意味しない。

ここで区別すべきなのは、現在の共同体がどの過去を自らの歴史として継承するかという問題と、当時実際に誰が、どの属性を理由として被害を受けたのかという問題である。

「LGBTQ史の一部である」という主張と、「LGBTQがその被害を受けた」という主張では、含まれている内容が異なる。

前者は現在の政治的共同体による歴史の継承についての主張であり、後者は歴史上の被害主体についての主張を含んでいる。

現在の政治的な包含関係は、過去の制度が実際に対象としていた範囲を後から変更するものではない。

5. 現在の「私たち」と過去の主体

現在の政治的共同体は、異なる歴史を持つ人々の間に新しい「私たち」を形成することができる。また、その共同体が複数の過去を自らの歴史として継承することもできる。

しかし、現在の「私たち」が成立したという事実だけによって、過去にも同じ「私たち」が存在していたことにはならない。

現在の政治的カテゴリーは連帯の範囲を広げることができるが、過去に誰が何を理由として被害を受けたのかは、当時の制度や分類によって制約される。

したがって、「私たちの歴史」であることと、「私たちに関係する被害」であること、さらにその被害を理由として現在の措置を求めることは区別する必要がある。

現在の共同体は、自らがどの過去を記憶するかを選ぶことができる。

しかし、過去の被害主体まで現在の政治的な自己理解によって書き換えることはできない。