動物を不必要に殺してはならない、苦痛を与えてはならない、意思に反して繁殖させてはならない、といった主張は、しばしば「動物の権利」という言葉によって説明される。しかし、この表現には、区別して考える必要のある二つの主張が含まれている。
一つは、人間に対して動物を一定の方法で扱う義務を課すという主張である。人間は動物を不必要に殺してはならず、虐待してはならず、飼育するのであれば一定の福祉を保障しなければならないという規範は、人間の行為に対する特別な制約として構成できる。この場合、義務を負うのは人間であり、動物はその義務によって保護される対象となる。
もう一つは、動物自身を権利の主体として認めるという主張である。この場合、動物は単に人間が配慮すべき存在なのではなく、生命や身体について、それを侵害されない権利を持つ存在として扱われる。人間が動物を殺してはならない理由も、人間に特別な禁止義務があるからではなく、その動物自身に殺されない権利があるからだということになる。
この二つの立場は、人間と動物の関係だけを考えている限り、ほとんど同じ結論を導く。しかし、権利を侵害する主体が人間ではなく別の動物である場合を考えると、両者の違いは明確になる。人間にだけ特別な義務を課しているのであれば、動物同士の行為がその規範の対象にならないことには何の不思議もない。他方で、動物自身に殺されない権利や身体を侵害されない権利があるのであれば、その権利が加害者の種によって存在したり消えたりする理由を説明しなければならない。
ここで問題にしたいのは、動物の権利が存在するなら、あらゆる危害を無制限の費用をかけて防止しなければならないということではない。また、動物に人間と同じ責任能力や同意能力があると仮定する必要もない。問題はより限定的であり、動物自身に人間と同じ種類の基本的な権利を認めるのであれば、加害者が別の動物であるという理由だけで、その権利を保護する理由まで失われるのかという点にある。
1. 人間の義務と動物の権利
「人間は動物を殺してはならない」という命題と、「動物には殺されない権利がある」という命題は、同じものではない。前者は人間に対する規則であり、その対象を人間の行為だけに限定することができる。後者は動物自身の地位についての主張なので、その動物の生命を誰が奪おうとしているかとは別に、その権利が存在することになる。
たとえば、ある動物に人間と同じ意味で殺されない権利があるとする。人間がその動物を殺そうとした場合には、その生命を保護する理由があると考えられる。では、別の動物がその動物を殺そうとした場合にはどうなるだろうか。加害者の能力や責任は大きく異なるとしても、被害を受ける動物の側では同じ生命が失われる。
ここで、動物による殺害だけを権利保護の対象外にするのであれば、その理由は被害者側の権利そのものからは出てこない。加害者が人間である場合には保護され、加害者が動物である場合には保護されないという違いを設けることになるからである。
もちろん、加害者の違いによって責任や処罰の扱いが変わることには問題がない。規範を理解し、自らの行為について判断できる人間と、そのような能力を持たない動物を同じ責任主体として扱う必要はない。しかし、加害者の責任が異なることと、被害者の権利が異なることは別の問題である。
また、権利が存在することから、第三者がその権利をどのような費用を払ってでも完全に保障しなければならないという結論が出るわけでもない。人間の権利についても、あらゆる危険を完全に除去することは要求されていない。しかし、生命や身体についての権利を認めるのであれば、少なくとも予防可能な重大な侵害を減らすことには一定の理由が生じる。この程度の保護まで一切要求しないのであれば、権利を認めることの実質的な意味はかなり限定されたものになる。
2. 殺害と捕食
肉食動物は、他の動物を殺すことによって食物を得ている。被食動物に人間と同じ意味で殺されない権利があると考えるなら、この殺害をどのように扱うかという問題が生じる。
ここで問われているのは、捕食動物を人間の殺人犯と同じように非難したり処罰したりすべきかどうかではない。捕食動物にそのような責任能力がないとしても、被食動物の生命を保護する必要まで消えるわけではないからである。問題は、被食動物に殺されない権利があるという前提を維持しながら、加害者が別の動物である場合だけ、その権利を保護しなくてよいとすることができるのかという点にある。
さらに、捕食には人間社会の殺害とは異なる事情がある。人間に対して他人を殺してはならないという規則を課しても、通常、その人は別の方法で生活を続けることができる。殺人を禁止することによって、その人の摂食や生存そのものが不可能になるわけではない。
肉食動物では事情が異なる。捕食は単なる選択可能な行動の一つではなく、生存のための摂食行動でもある。そのため、捕食という行為だけを禁止しても、代わりとなる行為が自然に残るわけではない。捕食を防止すれば、捕食動物は食物を失い、その状態が継続すれば死亡し、個体群を維持できなくなる可能性がある。
したがって、被食動物の生命を保護しながら捕食動物の生命も保護するのであれば、人間が捕食に代わる手段を用意する必要が生じる。食物を供給し、必要に応じて捕食者と被食者の接触を制限しなければならない。
しかし、介入はそこで終わらない。捕食が減少すれば被食動物の死亡率が下がるため、その個体数が増加する可能性がある。被食動物が増えれば植生への負荷が変化し、他の動物の生息条件にも影響する。捕食動物に継続的に食物を供給すれば、捕食動物側の生存率や繁殖率も変化する可能性がある。
そのため、捕食による殺害を継続的に防止するのであれば、給餌だけではなく、繁殖、個体数、生息域などについても一定の管理が必要になる。自然界では、捕食だけを切り離して除去し、残りの仕組みをそのまま維持することが難しいからである。
これに対して、自然に起きていることには人間が介入すべきではないという考え方もありうる。しかし、ある危害が自然に発生していることは、その危害の原因を説明することにはなっても、被害を受ける主体の権利が失われる理由にはならない。人間についても、病気や災害のような自然に生じる危害について、可能であれば救助や予防を行うことは普通に認められている。もちろん捕食と病気は同じ現象ではないが、「自然に起きる危害だから保護理由は存在しない」という原理だけでは、動物同士の殺害を権利保護の外に置くことはできない。
ここから自然界を完全に管理しなければならないという結論が直ちに出るわけではない。しかし、動物の生命権を人間による殺害の場合と同じように実効的に保障しようとすれば、人間が自ら殺害しないだけでは足りず、他の動物による殺害を減らすための相当程度の介入と継続的な管理が必要になる。
3. 性行為と自己決定
同じ問題は、動物の身体的・性的な自己決定について考えるとさらに明確になる。
動物の性行動には、相手が逃避や抵抗を示しているにもかかわらず、力や威嚇によって交尾が行われる場合がある。このような行動を人間社会における犯罪概念とそのまま同一視する必要はなく、動物に人間と同じ形式の同意手続きが存在すると考える必要もない。
問題になるのは、人間が動物の抵抗や選好を無視して繁殖させることを、その動物自身の身体的自己決定の侵害として説明する場合である。その説明を採るのであれば、別の動物が同じ抵抗や回避を力によって押し切る場合についても、被害を受ける動物の権利がどのように扱われるのかという問題が生じる。
したがって、ここで必要なのは、動物の性行動を人間の法的な同意概念にそのまま当てはめることではない。人間による強制的な繁殖を問題にするときに保護されているとされる動物側の身体的な利益や自己決定を、加害者が別の動物になった場合にも同じように考えるのかという問題である。
ここでも、加害動物に責任能力がないことは、加害動物を非難したり処罰したりしない理由にはなるが、被害を受ける動物の身体を保護しない理由にはならない。被害者に権利があるという主張と、加害者に責任があるという主張は独立しているからである。
さらに、この権利を実効的に保障しようとすると、捕食の場合と同じ問題が発生する。強制的な性行動を確実に減らすには、個体の分離、接触機会の制限、監督、避妊、去勢、繁殖行動への医学的な介入などが必要になる場合がある。
その結果として繁殖率が低下すれば、今度は個体群を維持するための措置が必要になる。自然な繁殖だけでは個体群を維持できなくなれば、人工的な繁殖や繁殖個体の管理が必要になる可能性もある。
つまり、強制的な性行動だけを自然界から取り除くことは、必ずしも可能ではない。それを防止することによって繁殖の仕組みそのものが変化するのであれば、失われた機能を人間が別の方法で補完する必要が生じる。
殺害の場合と同様に、身体的自己決定権を実効的に保障するほど、動物の生活への監督と管理を増やす方向に圧力が生じる。
4. 責任能力と権利保護
動物同士の殺害や強制的な性行動については、動物には責任能力がないという説明が考えられる。しかし、この説明が解決するのは主として加害者側の問題であり、被害者側の権利の問題ではない。
人間社会でも、権利を持つ能力、自分で意思決定を行う能力、自らの行為について責任を負う能力は一致しない。十分な意思決定能力を持たない人であっても生命や身体についての権利を持つことができる一方、そのような人が他者に重大な危害を加える可能性がある場合には、責任能力の不存在だけを理由として危害を放置するわけではない。
この場合には、本人を非難したり処罰したりできるかという問題とは別に、被害を防止するための措置が検討される。必要性や危険性に応じて、監督、分離、行動の制限、治療、環境の調整などが行われることがある。
動物についても同じ区別を採用するなら、捕食動物に道徳的責任がないことから、その捕食によって殺される動物の生命を保護しなくてよいという結論は出ない。同様に、強制的な性行動を行う動物に責任能力がなくても、被害を受ける動物に身体的自己決定権があるのであれば、その権利を保護する理由は残る。
したがって、動物同士の危害を権利保護の対象外にするには、責任能力以外の原理が必要になる。
5. どの立場を採ることができるか
ここまでの問題に対しては、大きく三つの立場が考えられる。
第一は、人間にだけ動物に対する特別な義務があると考える立場である。この場合、人間が動物を殺してはならず、虐待してはならず、意思に反して繁殖させてはならないとしても、それは人間に課される特別な規範であり、動物自身が人間と同じ意味で一般的な生命権や身体的自己決定権を持つことを意味しない。
この立場では、人間と動物の行為を非対称に扱うことに問題はない。最初から規則の対象が人間だからである。ただし、その場合に中心にあるのは動物自身の一般的な権利ではなく、人間に課される特別な義務である。
第二は、動物自身に人間と同じ種類の権利を認めながら、動物による侵害だけを特別に権利保護の対象外にする立場である。この場合には、人間による殺害や強制的な繁殖は権利侵害になる一方、動物による同種の危害については保護を要求しないことになる。
この立場では、被害を受ける動物の権利が、加害者の種によって異なる扱いを受ける。そのため、なぜ動物が加害者である場合だけ、その権利を保護しなくてよいのかを説明する必要がある。
野生動物には集団として独立した生活があり、その生活を人間が外部から管理すべきではないという説明も考えられる。しかし、集団としての自治や独立を認めることと、その内部で個体の生命や身体についての権利を保護しなくてよいことは同じではない。人間についても、ある集団が自治を認められていることによって、その内部の殺害や重大な身体侵害が当然に許容されるわけではない。動物についてだけ、集団の独立を個体の基本的な権利より常に優先するのであれば、その違い自体に説明が必要になる。
第三は、動物には人間と同じ種類の権利があり、動物同士の危害も本来は保護の対象になるが、現実には介入の費用、副作用、知識の不足などによって十分な保護を実現できないと考える立場である。
このような制約は人間社会にも存在する。生命や身体についての権利があるとしても、あらゆる危険をどれほど大きな費用をかけても防止しなければならないわけではなく、救助や保護の能力には現実的な限界がある。しかし、その場合でも、保護の費用が高いことを理由として、被害者に権利がないことにしたり、侵害そのものを問題ではないことにしたりするわけではない。
したがって、この立場を採るのであれば、技術や知識が向上し、介入の費用や副作用が低下するほど、動物同士の危害に介入する理由は強くなる。安全に捕食を減らしながら捕食動物に代替的な食物を供給できるようになれば、その方法を利用する理由が生じる。強制的な性行動を低い負担で防止できるのであれば、個体の分離、監督、避妊、去勢などを行う理由も強くなる。さらに、それらの介入によって個体数や繁殖の仕組みが変化するのであれば、それを補うための繁殖管理や生息環境の調整も必要になる。
この立場では、人間の介入能力が高くなるほど、自然界への介入を控える理由の一部が失われていく。
6. 結論
「人間には動物に一定の危害を加えない義務がある」という主張と、「動物自身がその危害を受けない権利を持つ」という主張は、同じではない。前者であれば、人間だけに特別な義務を課していると説明すればよく、動物同士の殺害や強制的な性行動まで同じ規範の対象にする必要はない。
しかし、後者を採用し、動物自身に人間と同じ種類の生命権や身体的自己決定権を認めるのであれば、その権利が他の動物によって侵害される場合についても説明が必要になる。加害動物に責任能力がないことは処罰の違いを説明することはできるが、被害動物を保護しない理由にはならない。自然に起きる危害であるということも、それだけで被害者の権利を失わせる理由にはならない。
介入の費用や副作用が大きいために現在は十分な保護を実現できないと考えることはできるが、その場合には、技術や知識が向上して介入が容易になるほど、保護を行う理由が強くなる。その帰結として、給餌、監督、分離、避妊、去勢、繁殖管理、個体数管理、生息環境の調整など、人間による相当程度の継続的な介入が必要になる可能性がある。
したがって、動物を人間と同じ意味で権利主体として扱うことは、単に人間による動物の支配を制限する方向だけを意味するわけではない。その権利を動物同士の関係にも一貫して適用するのであれば、条件によっては、人間が動物の生存、繁殖、個体間関係をより強く監督し、管理する方向にも進むことになる。
この帰結を受け入れること自体は、一貫した立場である。他方で、そのような介入を原理的に避けたいのであれば、人間による危害だけを問題にする理由を、人間に課された特別な義務として説明するのか、それとも動物による侵害だけを例外とする別の原理を採用するのかを明らかにする必要がある。
「動物の権利」という表現を用いるときに問われるのは、最終的にはこの違いである。