人間の基本的な錯誤の一つとして、同じ情報を与えられたら相手も同じように理解や判断をするだろうというものがある。そのため誤った理解や判断をしているように見える人間に向かって、様々な言葉を用いて改めさせようとする。自分の判断は最大限合理的であり、あの手この手で愚かな相手に対して説得を試みる。現実の様々な場面で、他人が他人を説得しようとする様子はいくらでも見ていると思うし、それは普遍的な現象だ。
子供の頃は素朴に自分の話をすれば相手がわかってくれると思っていた時期もあるし、相手も自分と同じ生き物だから、言葉を尽くせば理解してくれるはずだと思っていたと思う。議論という体裁であれば、お互いに協力的でさえあれば、何らかの結論に収束するとか考えていたかもしれない。世の中の一部の場面ではそうだが、一般的にはそうだとは到底言えないのは、他者の多様性を見ていけばわかってくる。
例えば合理的な選択というのは、興味がないものに対して行われる。当然ながら特別なものには特別な扱いをするし、他人が合理的ではないという説明で、自分には関心がないものを特別扱いしている、もしくは自分がとりわけ関心があるものを特別扱いしていないと不可解だと強く反応をする。そういう部分のすれ違いで、他人の愚かさについてあげつらう人間もいる。他人の目に世界がどう映っているかを認めることも、多様なものを理解することだと思う。
「自分の基準だとそうである」という言葉が無力なように、世の中には色々な利害の対立がある。共同体のメンバーとしてあなたが割を食えば全員が得をするので、受け入れるのが合理的だと言われた場合、当然のことながら反論をする。少ない確率だが重篤な被害が出る病気に対して、自分たちは全員でそのために様々なものを犠牲にするべきだという主張があったときに、犠牲の当事者たちの中にはそんなリスクは無視をしてもいいという人間もいる(見たところ大多数がそのように見えるが)、意見が違う人間に対して、拙い方法で言葉を尽くしたり、馬鹿みたいなレスバで勝利をすれば、相手の誤った認識が直るはずである。もしくはそのような判断が直らないのはコンプレックス?みたいなものにより認知が歪んでいるとか、もしくは知的に問題があるとか、そうやって怒ったり皮肉を言ったりしている人達を見てきた。
他人に理解してもらいたいという気持ちはわかるし、誤ったことを言っている人間を正したいというのはよくわかる。しかし他人の理解というのは正しく自分が理解している方法以外の理路により合理的に出来ていて、よほど同質な人間ではない限り徒労に終わることが多い。そういった無駄な試行錯誤を繰り返すうちに、別に全員に理解して貰う必要なんてないし、誤ったことを言ってる人間はなんか適当に言って放っておけばいいなということに気づく。別に他人は誤解したままでいいし、他人の宇宙というのは触らないに越したことはない。
SNSでは誰もが誰もを説得しようとしているし、説得のための拙い方法が溢れている。名言の引用や強い言葉、権威、意味のない統計、それっぽい事例、狭い合理性に基づいた論証(保険の期待値とか言い出すやつ)、言葉をこねくり回した論理、そういった洗練されてない独自の説得方法で、他人に自分と同じ「合理的」な判断をさせようとして、それが上手く行かなくて取り乱している。そういったものからは距離を取った方がいいだろうねと、いつも思っている。