最近は特に知らない人間と話す機会が多いが、相性が合う人間とそうでない人間がいる。人間には相性というものがあり、これは社会的階層や能力によって規定されていると前々から思っていたが、それをただただ確かめるだけみたいなことがある。そういった人間とは少ない時間で仲良くなることは難しい。
最近は酒を飲んで他人と話をしても楽しくなくなってきた。流石に何年も繰り返していればそんなものにも飽きる。気が大きくなって雑多な話をするだけのことなんて、そもそもそんなに面白いものではない。喋ることよりも黙ることの方が良いし、黙るなら一人でいるのがいいだろう。
コミュニケーションというのは自己及び他者の開示から始まる。人格、趣向、属性などを加味して、相手についてよく知るためのクエリを投げるだけのゲームだと捉えた場合、どのようにそれを上手くやるかが見えてくる。そしてゲームの攻略のように見えてしまった場合、素面で向き合うことは難しくなる。
成長というのは一つの呪いのようなもので、それがゲームとして見え、良くする方法がわかると、選択肢としてそれを選んでしまう。素直に目の前の状況に対応出来なくなる。ゲームのように見えてしまうことで失われるものがある。もしそれが人の場合には、人間のように見えなくなってしまう。人間だった人たちが、そうでなくなってしまう様子をよく見た。平等や尊重という概念は、この不確実性から来るのだろうと思う。ゲームのように思えてしまったら、配慮すらしなくなる。
そういった雑念が嫌で、様々なものを見ないようにしてきた。物事の結果よりも誠実や真心を重要視する丸出しの馬鹿のようにはなりたくないが、気持ちはわからなくもない。